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2013年3月12日 (火)

ゆるす、あきらめる、考えないと楽になる。

こころと言う現象は、とらえどころのないもので、


自分でコントロールするのはとても難しいものです。


しかし、こころには、ある種の特性みたいなものがあって、


それを知り、自分に当てはめてみれば、少しだけこころの操縦が容易になります。


いくつかある中で、振り子現象についてご紹介しましょう。


例えば、旅行に行って、楽しい時間を過ごせば、


ストレス発散して日常をまた過ごせる、と思うでしょう。


しかし、私のみてきたクライアントは、旅行の後ほど、


気分の落ち込みが激しい、と言うことです。


また、別のケースとしては、毎日がハッピーみたいなことを言い出す人は、


たいがい、次の週くらいには、なんだか疲れてしまって・・・みたいな感じになることが多い。


このような事例が多々あり、僕個人は、


クライアントが、楽しんでいるときこそ、次に落ち込みの波がくる、


と言う考えを持っています。


プラスに振れれば、次はマイナスに振れる、と言うことですね。


ですから、自分の発言や行動を客観視して、なんかウキウキしてるな、と感じたら、


次に、ウツウツがくると予測しておいたほうが、気分的には楽でしょう。

もちろん全てがこのような考えに当てはまるとも思いませんが、


そのように考えていたほうが、クライアントに適切なアドバイスをするのが役割である、


パーソナルトレーナーと言う職業においては、良いように思います。


※まあ、あまり固定概念を持ちすぎること自体、自分のこころの健康によくないですが


そうそう、話しはそれますが、振り子現象を拡大解釈して、


悪いことがあった後は、きっと良いことが起こると(宝くじが当たるとか、物事がうまく運ぶ)と、


勘違いする人がいますが、これはあくまでこころの話であって、


実際の現象ではないので、ご注意を。


現実の世界は、行動で変えていくしかありません。


ところで、このような感情の振れが、頻繁に起きたり、


もしくは、その振れ幅が大きかったりするのは、


こころの鍛錬にはなるかも知れませんが、


時として、こころを消耗するように思います。


車のエンジンと同じで、


やたらに吹かしたり(回転を上げたり)すると、


エンジン(こころ)の寿命が縮むというのと似ている。


だから、きちんとメンテナンスしないといけない。


では、そのメンテナンスの方法は?


僕のアドバイスとしては、


あきらめる、ゆるす、かんがえない、


と言うこと。


???


って感じだと思いますが、これでいい。


ちょっと疲れているかも・・・と感じたら、


自分をゆるし、誰かを説得することをあきらめ、そして考えない。


最後の、考えないと言うのはとても難しいことなので、運動を進めます。


運動の最中は、それに集中するので、思考をとめられる。


こんなことを、3ヶ月くらい続けると、こころの調和をとるのがうまくなります。


振り子の振れ幅を、あまり大きくしないようにできる。


イメージとしては、シーンとした湖面のような感じかな。


もちろん、これは感情をなくせ、と言っているのではありません。


感情に振り回されないように、と言うことを言いたいのです。


さて、じゃあ、お前さんはどうだ?と言われれば、


僕も人間なので、こころの振り子はいつも揺れていますが、


でも、それを瞬時にとめることも、そして大きく揺らすこともできます。


それは、体を動かすこと、大きな声をだすことを日常化しているからだと思います。


まあ、これについては次回。


久々のブログ更新になりましたが、ではでは。

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2013年1月29日 (火)

禅について 

禅について人に話す機会がありそうなので、

頭の整理のために書きます。

まず僕がやってきた禅は、

太気拳 の代表的鍛錬法である

立禅(りつぜん)です。

詳しくはwikiとか見てください

一般的に禅と言うと、

禅宗(臨済宗とか曹洞宗)の禅の方法、

もしくは考え方を想像すると思いますが、

それらの禅と、僕の感覚で言う禅は違うものだと思っています。

高校生のとき、学校の先生に太気拳をやっている方がいて、

その方に基本の形を教えてもらいましたが、

当時は練りや這いもやっていましたが、現在はほとんどやってません

そのときは、修証一如とか只管打坐みたな説教を受けた記憶はありません。

ただ、ひたすらに立つことだけでした。

もちろんカラダの中心を感じるとか視線はどうこうとかは教わりましたが

だから、禅と言うものは、

僕にとっては、身体的な活動の一種であって、

そこに宗教観や社会通念上の禅みたいな感覚を持ち込んだことはありません。

トンチのごとき禅問答とか、いみねーな・・・などと思っているくらいですし。

そんな訳で、僕の禅感は、

人が禅に求める、救いの答えを持っていません。

ただただ、

カラダと向き合い、

身体能力のアップと気の充実と調整を図っているだけです。

たまたまそれが、立「禅」と言う名であって、

まるで「禅」の修練を積んでいるのか、

道元のような考えをもっているのか、

救いの答えをもっているのかと勘違いされているだけです。

でも、そんなことを15年以上やっていると、

毎日やっているわけではありませんし、いつも自然の中でやっている訳ではありません。時にはトイレの個室の中でやることもあります

精神的な部分にも、ある程度の気づきは生まれます。

それは、呼吸と全身の細胞の膨張収縮(感覚的な)をシンクロさせることで、

精神活動のレベルをコントロールできるようになること。

例えるなら、バイクのアイドリングを調整するような感じかな。

分かりづらい?

じゃあ、もしくは、イライラするときとか、浮き足立っているときに、

それを調整することができるって感じ。

おや?

これって、世間の人々が求めていることでは・・・

まあ、それは置いといて、

今僕は、格闘技をやっていないけど、

なぜ立禅を続けているかと言うと、

精神状態の調整と、気の充実に欠かせないと思っているから。

この感覚、

立禅している人ならわかるよね。

逆に、やらなきゃ理解できない。

う~む、

今度のミーティングで、なんて言おうかな・・・

 

 

 

 

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2013年1月 9日 (水)

肉体鍛錬と魂の浄化、そして祈りについて

肉体を鍛えるということは、

身体機能を向上させることに他ならないけど、

しかし、その行為が持つ意味は、

何も、身体機能の向上だけではないと思う。

ここ数年感じているのは、

肉体鍛錬とは、

「魂の浄化と祈り」

の意味があるのではないかと言うこと。

魂とか祈りとかって言うと、

数年前なら誤解を招きそうだったけど、

そろそろこんな話しをしても、問題ない時期だよね。

では、超久々に、持論を展開したいと思います。

まず、ここで言う肉体鍛錬のレベルは、

フィットネスクラブで音楽に合わせて気持ちよく汗をかくとか、

科学的トレーニングとかじゃなく、

飲まず食わずで、何日も山を歩き続けるとか、

もしくは、この寒いなか行水したりするような、

つまり、本能的に拒否してしまう、

苦痛を伴う肉体的な作業のこと。

こう言うレベルの鍛錬は、生理的には避けられるべき行為です。

そりゃそうです。

動物である人間には、生存欲求が無意識に働いているので、

そんな苦しいことを自らに課して、寿命を縮めるようなことには、

脊髄反射的に拒否してしまうハズ。

でも不思議なんです。

このような苦行ともいえる肉体鍛錬を実施すると、

妬みや、恨み、憎悪、

モヤモヤとか、イライラとか、

そう言う人間の負とか、

余計な部分が削れて、

シンプルになれるって言うか、

無駄がなくなるって言うか、

ともかく、大切なものだけが残って、

心の足かせになっている負のエネルギーが除去され、

よいエネルギーに満たされていく感じ。

その感覚を、最近の僕は、

「魂を浄化」とか「魂を磨く」とかって言っているんです。

複雑な社会背景、人間関係で負のエネルギーを背負うことが、

現代人の宿命だと思うけど、だからこそ、

鍛錬をして、魂を習慣的に磨くことが必要だと思うんです。

さて、お次は祈りについて。

昔から、100日参りとか断食とか、

「己の苦痛と引き換えに想いを成就させる」

ような行為が日本にはあったと思うけど、

この行為は、まさに祈りの原型のように思う。

ちょっとイメージして欲しいのだけど、

温かい部屋で、満腹で、ふかふかのカーペットの上で、人がガヤガヤ騒いでいて、TVの音がうるさい環境で、

祈りって出来ないでしょ?

逆に、寒くって、空腹で、冷たい床の間で、静かな環境で、一人の時こそ、

祈りに適した環境のようにイメージできない?

身体的に満たされた状態では、

祈りに対する真剣度みたいなものが高まらないのではないか。

いやむしろ、満たされないとき人は祈るのか?

これが子供のころから、知らぬ間にテレビとかで刷り込まれているものなのか、

それとも、脳に元々書き込まれている方式なのかは分からないけど、

ともかく、人が祈るとき、その引き換えに「苦痛」が必要な気がする。

※この部分を合理的に説明できる人いないかな~

さてさて、話をまとめよう。

最初に説明した魂の浄化、次に説明した祈り。

これらは、苦痛と言えるレベルの肉体鍛錬によって引き起こされ、

その質が高まる現象だと思う。

これは、人間特有の感覚だと思うけど、

でも、特別なことってよりかは、

大きな石が、長い時間をかけて、川の流れによって丸く削られるように、

ごくごく、自然な現象であり、人としての自然な在り方なんだと思う。

ここ最近は、こんな気持ちで体を鍛えているよ。

みんなはどうなのかな。

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2012年12月 9日 (日)

なぜ、雄勝は楽しいのか

僕がお世話になっている漁師さんたちは、

とりあえず、なんでも、自分でやってみる。

例えば、船の修理やエンジンの調整、

もしくは納屋を立てたり、クレーンを使ってみたり。

実にオールラウンドな存在だ。

どこかのお教室で、誰かに習った訳ではない。

暗中模索しながら、冒険心たっぷりに、なんにでも取り組んでみる。

何でも自分でやるんですね、と聞くと、

その方がハェエッ(早い)、と言う。

確かに現地は都会のように利便性が高くないし、

津波によって色々と不都合が出ていて、

業者に頼むよりも、自分でやった方が早い場合が多々ある。

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実は、漁師さんだけではなく、生粋の雄勝人であれば、

生活や仕事に関わることは、大概なんでも自分でやる。

と言うか、やらざるを得ない。

業者に頼めば高くつくし、時間もかかる。

その業者も今は限られている。

都会では、趣味としての日曜大工が流行っているが、

ここ雄勝では、リアル日曜大工が当たり前だ。

そんな生活を僕も及ばずながら送っている。

メンドーと思われるかも知れないが、

実に楽しい。

いや、かなり楽しい。

そうか、きっと雄勝の人々は、楽しいから自分でやっているのかも知れない。

80歳を超えるお爺さんが、普通に階段の隙間にコンクリを流し込んでたり、

山から沢水をひっぱったり、納屋を建てたりしている。

※このお爺さんに、お爺さんって呼びかけたら「お爺さんじゃないもん!」って怒られた(笑

野菜なんかは自分で畑を耕して作る。

それらを物々交換のごとく魚介類と取引する。

こんな日常は、雄勝に住む楽しさ、

そして魅力なのかもしれない。

さて、僕なりに言うと、雄勝人たちは、生活や仕事に関わること、

つまり生きることに対して直接的な能力が高い。

いわば、優秀なサバイバーなのだ。

都会では、自分でやるメンドクササを通貨に変えて、

他人に代行してもらう。

経済はそうやってまわって行くのは事実だが、

僕は、雄勝流のなんでも自分でやるのが好きだ。

なんでも自分でやれば、サバイバーとしてレベルアップできる。

まだまだ、色々と学ぶことがありそうだ。

学校で押し付けられる死んだ教育ではなく、

ここ雄勝では、

生きるための、知恵と技術と自立心を身に着けることができる。

それも楽しく。ワクワクしながら。

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2012年11月15日 (木)

とある漁師の1日

am  2:00 大型トラックからホタテの荷卸し
am  4:00 ホタテの水揚げ
am  7:00 ホタテの養殖作業(通称みみつり)
am 10:30 養殖ロープなどの準備
pm 13:00 船に乗り町外の造船所へ2時間の航海
pm 18:00 事務作業
pm 19:30 夕食&風呂
pm 21:00 就寝

翌日 am 2:00 大型トラックからホタテの荷卸し・・・

こんな日常を送っている。
今は特に忙しい時期。

少しは弱音も出てきそうだ。
でも、漁師たちから、弱音やエスケープの声を聞いたことはない。

むしろ、状況が厳しいほどに、彼らは奮い立ち、
知らないことにこそ、果敢に挑戦していく。

こんなことがあった。
そこは、養殖棚が密集する危険地帯。
棚に船のプロペラをひっかければ、最悪の場合、航行不能になる。

でも、そこを通れば目的地まで近い。
急がなければ日没になる。

その漁師は、やや高めのうねりの中、そのエリアに入り、
心配する僕に、「大丈夫だ、問題ない」と言った。
でもそれは、自分に言い聞かせているようにも思えた。

彼らは、あまのじゃくなのかも知れない。
それも、生粋の。
辛い時こそ笑い、危険な時こそ奮い立つ。
それを愚かと言う人もいるかも知れない。

しかし、僕はそんな男たちを尊敬する。
なぜか?
だってそうだろう。

ちょっとの不安で逃げる、やったことのないことは出来ない、チャレンジしない。
すぐに人のせいにする、軽々しく弱音を吐き、助けを求め、
自ら動こうとしない。
そんな男ばかりが増えてしまった世の中で、

誰が先頭を切って、進んでいくんだ?
そう、彼らのような男しかいないだろう。
不安に勝てないような男が、道を切り開けるか?

無鉄砲だけど、ずるがしこく、たくましく、愛嬌に溢れる。
辛い時こそ笑い、危険な時こそ奮い立つ。
そんな彼らは、究極に純粋な「男」なのだ。

彼らのような男こそ、自らの人生を切り開く。

さて、ある人の言葉に疑問を持った。
漁師たちに、その人は、支援は必要ですか?と聞く。
わかんないかね?

漁師たちは、助けて下さい、支援が必要です、なんて言わないよ。
助けが必要でも、それは言わないし、言えない。
そんな安い男じゃない。
それに、素人に助けられるほど、甘い世界じゃない。

だから、もし君が彼らの手助けをしたいのなら、その男たちと同じに、
ただ、黙って、一緒に作業をすればいい。
支援なんて言葉を使わずに。

思い出してごらん。
中学生か高校生の頃。
少しくらい距離感のある男同志の方が、認め合えただろう?
仲良しクラブの男たちなんて、男なんて呼べたっけ?


今夜も、明日も明後日も、
漁師たちは、過酷な条件の中、同じ作業を黙々と繰り返すけれど、
そこに悲壮感やマンネリ感はない。
あるのは、ギラギラした野性的な雰囲気。

僕がここに来て最初に感じたこと。
それは、漁師一人一人が、目立つ存在であり、
キャラクターが濃い。
濃すぎる。

それはきっと、「男」だからなのだろう。
それも、生粋の。

人、人、人の中に埋没し、痛みを避けるために身に着けただけの、安っぽい常識を正当化し、組織に盲目的に従順になり、
男であることも、
自分と言う個性さえも、平均化してしまった君へ。

今、ここには「男」として学ぶべきことがある。
君の参戦を期待する。

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2012年9月24日 (月)

この海で、この男たちと

まるで申し合わせたかのように、

それは素早く、合理的で、淡々と進んでいく。

それでいて、無機的ではなく、有機的な流れを感じる。

外はまだ暗い。

AM:3:00

男たちは、二言三言話したように見えたが、

それは会話と言うよりも、

例えば、散歩ですれ違ったご近所同士が、

やあ、と挨拶を交わす程度のもの。

それ以外のことは、特に何も話さず、

船の中を所狭しと動いている。

男は二人。

一人は船の後方でハンドルを握り、

もう一人は、通称バンジョウカゴと言われる、

大き目のダンボール箱くらいの大きさの、とても頑丈なカゴに、

親指が通る程度の網目の網をかぶせている。

これにホタテを入れるのだろう。

そう、今僕は、ホタテの水揚げに初めて参加している。

船は真っ暗闇の中を、まるで、そこにレールでもあるかのように、

無駄なく、最短で、目的地へ向かっている。

具体的にどこが目的地かは、今の僕には分からないが、

ただ言えることは、この船に乗っていて、

不安と言うものを感じないことだ。

遠くに町の灯りが見えるが、

自分の周りには、ほとんど何も見えない。

感じるのは、船が波を砕く音と、

300馬力のディーゼルエンジンのうなり声。

僕は今、海の上の、ほとんど頼りない存在。

今ここで、船を奪われ、一人になったのなら、

おそらくそれは死を意味するだろう。

自分の運命を、自分でなんとかできない、

そう言う状況である。

しかし、不思議なことに、そんな風には感じない。

それは二人の男たちのテキパキとした動きが、

この状況が、いつも通りだと感じさせてくれるからだろう。

出発してから10分程度だろうか、徐々にエンジンの回転が落ちた。

目的地が近いのか。

船内は急に慌しい雰囲気に変わった。

操縦をしていた男は、寸分の狂いもなく、

大型トラック以上に長い船を、

ホタテを養殖しているロープの傍に寄せた。

あたりには明かりなどない。

どうやってそこを見分けたのか。

後で聞いたのだが、

「感覚」だと言う。

それを聞いて、日々の自分の「無感覚さ」を恥じた。

さて、話しを戻そう。

その男は、一体いつ、その道具を持ち出したのかさえ気づかないほど見事に、

ロープに引っ掛ける鉤を海に投げ入れ、

テキパキとそれを引き上げる。

もう一人の男は、船のへさきのほうで、同じような作業をしている。

数秒後、養殖棚(ロープ)が船の縁まで持ち上がり、

ホタテを吊るしているロープが目の前に現れた。

位置関係としては、船と養殖棚は並行になっている。

一応説明すると、

海中には、2~3トンの錘が100m以上の幅で置かれ、

錘には強靭なロープが繋がれ、それが海上方向に伸びている。

その先端には、同じく強靭なロープが結ばれ、

二つの錘を軸に、海上にロープが張られる格好となる。

このロープにホタテなどを付けた養殖用の細いロープを下げ、

海産物によっては、1年から4年まで、海に吊るしておく。

今、そのロープを引き上げたのだ。

無論、人力では到底持ち上げることは不可能であり、

それには300馬力のディーゼルエンジンの動力を使う。

さて、男たちは申し合わせたかのように、なんの不自然さもなく配置に着いた。

僕もそれを見習い、配置に着いた。

しかし、一人の男は、どうやら僕の動きに不安があるらしく、

こうだの、ああだの、指示を出してくる。

ただしそれは、手取り足取り教えてくれる、と言うものではなく、

怪我をするなと言うことと、

ざっと、流れを伝えてくれただけだ。

漁師の世界で思うことは、

やってみて、怒られて、試行錯誤して、

体で覚えることが基本だと言う事。

だから、積極的に動く者、頭とセンスの良い者、

努力を積み上げられる者が成長する。

それができない者は、いつまでたっても半人前なのである。

だから、ある種の身分みたいなものが出来上がる。

仕事のできるものは尊敬されるし、

仕事のできないものは軽んじられる。

このような方法論を非効率と考えるか否か。

多くの人は、これに不安を覚えるだろうが、

私はこのような方法論こそが、

現代日本人に必要なことだと感じている。

多くの人は、手取り足取り教えられ、

定められたレールの上を歩き、

自分で考えることをしない、

言われないと動けない、

無駄なことはしたくない、

流れや雰囲気と言うものを感じない。

特に積極的に動けない人が多い。

そのような人に、なぜ動かない?と聞くと、

邪魔になるかと思って・・・などと言う。

確かに邪魔にはなるが、

それを乗り越えないと、成長がないのだから、

この場では、それは言い訳に過ぎないのだ。

こう言う人たちは、まさに場の雰囲気が読めていないのであり、

おそらく、日常でもそのような傾向にあるのだろう、と、ついつい穿った見方をしてしまう。

誤解を恐れずに言うなら、

君の代わりはいくらでもいるよ、と言う人間ばかりだ。

言葉が過ぎるが、ここ数年、本当にそう感じる。


話しを戻そう。

二人の男のしていることを真似て、僕は手を動かし続ける。

男たちは、手元に集中しているように見えるが、

僕が違うことをしていると、アイコンタクトを送り注意してくる。

エンジンの音がうるさいので、言葉は聞き取れないが、

不思議なことに、何を言いたいのか分かる。

正確に表現するなら、頭で分かると言うよりも、

体で感じると言ったほうが適切かも知れない。

ホタテを海から引き上げて、それを機械に通すと、

ホタテの殻についた海藻類や貝類が取れてきれいになる。

その機械にホタテを投入したり、

機械から飛び出てくるきれいになったホタテを、

先ほどのバンジョウカゴにつめる。

ホタテを満載したカゴの重さは60kgを超える。

二人の男は、布団でも持ち上げるかのように、

気軽にそれを持ち上げる。

僕はうまく持てない。

悔しいから、ムキになって持ち上げると、

男にケラケラと笑われる。

悔しいから、また持ち上げる。

しかし、嫌な気分じゃない。

むしろ心地がいい。

今僕は、海の上で、

ベテランの漁師たちにまざって、

その作業の流れの一部になっている。


しばらくやっていると、全体の流れをつかめてきた。

細かいところは、まだまだなのだろうが、

まずは注意される回数が減ってきた。

とにかく、その男たちの動きを見て、忠実に真似をする。

そのうちに、なんとなくだが形になる。

まるで子どもが言葉を覚えたりするのと同じ。

まずは、間違えても関係ないから、積極的に真似をする。

その無駄の繰り返しの中で、徐々に形が出来上がっていく。

そうか、漁師の世界のものの教え方は、

教育論とか、頭でっかちなことではなく、

人間の本性に順ずる、非常に有機的で、無駄のない、

そして質の高い方法なのだ。

個人の努力次第で、高い能力を身に着けることができる。


ふと気がつくと、あたりは明るくなっていた。

東の空には、神々しいまでの朝日が昇る。

いつの間にか僕は無心になり、景色の一部になっていた。

よく見ると、周囲に何艘か船が見える。

そのどれも、同じような作業をしているのだろう。

漁師の世界で何かの実感を得たい。

その想いだけで、いま僕は海に出ている。

少しは何かを掴めただろうか。

いや、1年やそこらでは、難しいだろう。

男が口を開いた。

「ほれ」

っと、缶コーヒーを渡された。

知らぬ間に作業は終わっていたようだ。

「空、めちゃくちゃ綺麗ですね」

僕がそう言うと、

「んだな」

と、男は、さも当たり前だろうと言いたげな表情で相槌をした。

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2012年9月 4日 (火)

今更ながら思うこと

こんなことを言うのは、今頃?って感じかもしれないけど、

やっぱ言いたいので、言う。

先日、都心のおしゃれなバーで、

ちょっとしたパーティーがありました。

たまたまその日は東京に行く用事があったし、

都会の雰囲気も時には感じないとよくないし、

それに素敵な出会いを、ちょっと期待して行きました。

もちろん、今は漁師見習いなので、

とれたてのホタテを持って。

バーのマスターは驚いていたけれど、

来場者には、このホタテうまい、どこのホタテ?などと、

お褒めの言葉を頂き、なんだかうれしくなりました。

しばらくは、ホタテ談義で盛り上がったのだけど、

そのうちに、会話は別なことに移り、

もともとパーティーが苦手な僕は、

ポツンと一人で突っ立っているだけ。

でも、生来の貧乏性が、何かしなきゃと僕を突き動かし、

カウンターで洗い物したり、ドリンク作ったりしちゃいました。

自分で言うのもなんですが、こう言う手仕事って、ほんと得意。

まるでスタッフかのようにテキパキ動き、

店員さんもびっくり。

そのうちに、後から来たお客さんは、

僕のこと、スタッフだと思ったらしく、

次々に注文が。

まあ、それはそれで、活路を見出したってことで、

個人的には、時間がつぶせてよかった。

さて、前置きが長くなったけど、ここからが言いたいこと。

30歳中盤くらいの、見た目の素敵な女性が、

僕のことスタッフだと思ったのか、

「赤くれる?」と言う。

その言葉が、あまりに無機質で、

聞き方によっては、無礼な感じで、

まるで、僕のことをロボットか何かと思っているんじゃないかって感じに聞こえて、

一瞬、その言葉をスルーしそうになったんだけど、

でも、そうだ、僕は今、スタッフの役割をしているんだって思い出して、

少しのタイムラグの後、

その素敵な女性にワインを出した。

けれど、その女性は、そのタイムラグが気に入らなかったのか、

礼の一つも言わず、

ツンっと、立ち去って行った。

その姿を追ってみると、客同士の会話には余念がないようだし、

さっきの嫌な態度は見えない。

あっ、そうか、彼女は、相手を分けているんだ。

同じ立場の客と、

店のスタッフ。

そこに境界線を引き、区別しているんだね。

はい、今回言いたいのは、ここ。

もしかしたら、以前の僕もそうだったかも知れない。

金持ちと、そうじゃない人を分けたり、

もしくは、自分にとって利用できる人、そうでない人を区別したり。

でも、そうじゃないよね。

相手が、店員だろうが、客だろうが、家族だろうが、友達だろうが、

基本的な礼儀やら態度、

そして人間的な愛情とか。

これって、相手によって、極端に変えるべきことではないよね。

でもたぶん、この女性も、以前の僕も、

少し疲れていたのかもしれない。

相手によって、自分の話し方なり、態度を変えるってのは、

余裕がなかったんじゃないかな。

今はそう思う。

まあ、今だって、僕は余裕がないんだけど、

以前と違うのは、

なんて言えばいいかな、

立場とか、背景とか、

文脈的な相互関係というか、

記号化された関係というか、

過去というか未来というか、

そう言う左脳的な理解ではなく、

右脳的な、人類みな兄弟みたいな感じで、

人と接するのが心地いいな~と思う。


さて、長くなったけど、

今回言いたかったことは、

すでに、多くの人がそう感じていると思う。

カフェとかお店とかで、スタッフに横柄な態度をとったり、

人によってコロコロ態度を変えるようなのって、

まあ、ダサいよね。少なくとも僕はしばらく前からそう思っている。

だから、最初に今更ながらって書いたの。


僕の勘違いかな。

いま、人間の生き方が分かれつつあって、

その一つが、今日言ったようなこと。

左脳的に、時間軸、文脈で、縄張り意識強く生きるか、

右脳的に、無限のなかで、境界線なく生きるか。

どちらが良いかとか、正しいかとか、

そう言うことじゃない。

どっちが自分にとって気持ちがいいか、

そして、幸福と感じるか。

ふ~む。

そろそろ、何かが変わりそうだね。

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2012年8月21日 (火)

大好きだよ、今でもずっと。

本当かどうか。

今から話すことを聴いて、

君はどう思うか?

少なくとも僕は、この話を聴いたときに、

素直に、

うん、

と受け入れることができた。


いま、一緒に仕事をしている、とある主婦。

子どもは3人。末の子は中1。

ご主人は自営業をしている。

彼女は、子供のころからの、大の親友を亡くした。

何で亡くなったかは、僕のブログを読んでいれば、

察しがつくだろうから言わない。

そんな背景での、今回の話。


あれから季節はめぐり、2回目のお盆。

その同僚の女性と、

地元の花火大会や、灯篭流しを、一緒に運営した。

暑く、忙しい毎日だったけど、

彼女は、いつも手を動かし、何か言われても我慢ができる。

そう言うものが、僕をいつも初心に戻してくれる。

心地いい毎日だ。

そうか、ずっと一人で仕事をしてきたから、

同僚と言う存在は、新鮮なのかも知れない。


そして、花火大会も目前に迫ったある日のこと。

大会協賛金の寄付者リストを作っているとき、

その中に、彼女の名前を見つけた。

この花火大会では、寄付者はメッセージを書き、

それを花火打ち上げ時に、会場で読み上げてもらえる。

そこには、こうあった。

「大好きよ、今でもずっと」

僕はストレートに聞いた。

お友達がなくなったんですか?

その気持ちはどこに持っていくの?

彼女は、

「毎日、墓前にお花を供えているの。

そしたらいつか会ったときに、

ありがとうね、って言ってもらえると思うから」

と言った。

僕は素直に、うん。と頷いた。

そのまま、作業を続けたが、

僕は不思議な感覚を覚えた。

なんて、心地良いんだろうと。

死んだ人にまた会える?

そんなバカな、と、今までの僕なら思ったかも知れない。

でも今は違う。

素直に、また会えると感じる。

言葉ではなく、体で感じる。


誰もが手探りの中で、なんとか開催した花火大会。

花火のサイズは小さく、

たった1,000発しか打ち上げられなかったけど、

その会場には、

余計なものがなく、

素直で、

温かくて、

優しくて、

夜だから暗いのだけど、

でも心の目は、明るさを感じていて、

きっと、母親の胎内にいたころって、

こんな感じだったのかな?と思うくらい、

会場は、温かさと優しさで包まれた。

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理屈ではなく、心で、体で、そして魂で。

そう言うと、ちょっと気恥ずかしいけど、

今の僕は、それを素直に言えるようになってきたよ。

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2012年8月12日 (日)

前置きはいらない、まっすぐな君のままでいい。

結局、私も住民票を移すことになった。

何かと言うと、昨年から関わっている、とある地域のこと。

その地域の町づくりに関わるために、今、町の非常勤職員のような形で仕事をしているから、

そのためには、住民票を移さなければならない。

元々は、住民票を移す気はなかったし、町づくりに関わるつもりも、あまりなかったが、

より積極的に関わって欲しいと言う要望があり、

これも何かの縁なのかも知れないと、ある種、自分を運命づけて、

この町の住人になった。

しばらくぶりかも知れない、こんな風に人と関わるのは。

この何年かは、自分一人で完結する仕事、生活、人生観を持って、

日々、生きてきたけれど、今は、大勢の人との関わりの中で、

何かを成しえようと言う、僕にとっては、ちょっと苦手な分野の生き方をしている。

だから、試行錯誤の連続だけど、

今までの人生観では、見えなかったこと、感じ得なかったこと、

多くのことを吸収できるわけで、

魂を磨くために必要な、実りある期間なのかも知れない。

少なくともそう思って、今、僕は日々を過ごしている。

さて、町づくりに関わる仕事をする中で、

毎日多くの人と会うように心掛けているのだが、

そんな出会いの中で、たくさんの「想い」を感じる。

その一部を紹介したい。

とある、男性の言葉。

彼は、津波で家も、お母さんも流されて、

でも、同じ場所で蕎麦屋を再開しようとしている。

建物は9月中には完成する。

年齢は60歳。

柴犬と二人で日々を過ごし、人の手を借りながら、

黙々と、作業に励んでいる。

話をすると、とても明朗快活な方で、

博識であり、多芸であり、

誰にも好かれる、男前なおやじだ。

そんな彼の人柄に惹かれ、週に1回は一緒に酒を飲んでいる。

もちろん、柴犬も一緒だ。

初めて彼と会ったとき、僕は一応、儀礼的な挨拶をし、

タラタラと前置きをして、自分のことを説明しようとした。

しかし、その時、彼はまっすぐに僕を向き、こう言った。

「前置きはいらねえよ、君のままで良い、まっすぐな君をそのまま出せばいい」

その言葉に、僕は心臓を鷲掴みにされた。

この数年、都会でセレブ相手に仕事をしてきて、

僕は口先ばかりになっていたのかも知れない。

セレブが好みそうな、話の装飾を言葉に着せて、

回りくどく、もったいぶって、さも自分が良質の人間であるかのように、

それを、言葉で、口先で、なんとか説明しようとしていたのだ。

それを彼は見抜き、前置きはいらないと言ったのだ。

僕は、ありのままの自分を表現することを、

どこか、恐れていたのかも知れない。

人に好かれ、誰にも嫌われないような人物像を演じ、

その好人物を演じることが、僕が僕であるような錯覚に陥っていた。

それを彼は見抜き、君をそのまま出せばいいと言ったのだ。

それ以来、僕は心が楽になった。

無理に好人物を演じることなく、日々を過ごせているから。

18歳で東京に出て、僕は自分を演じることを学んだ。

次の数年は、前置きを辞めて、まっすぐに自分を出すことを学ぶのかもしれない。

久しぶりのブログ更新になったが、今の僕はそんな風に生きているよ。

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2012年5月24日 (木)

最高のワインを飲んで思うこと

私の話ではありません。

以前お付き合いしていた、クライアントの話。

この方は、30代で独立し、瞬く間に億万長者って人。

当時の僕にとって、かなりの尊敬&憧れの方でした。

仮にTさんとしましょう。

いつだったか、Tさんと麻布のバーでワインを飲んでいて、

「オレは世界最高の(と思われる)ワインを、金が入ったので飲んでみた」。

ワイン狂のTさんにとってみれば、当然のことでしょう。

「ただな、いま思えば、それは失敗だったよ」

どうしてですか?

「だってさ、その最高のワインを初めて飲むと言う瞬間を、

ワインの経験値が低い当時のオレでは、

じっくりと味わえなかったんだから」。

なるほど。

「あれはもう20年ちかく前のことだが、

あれから知識も経験も増えて、

今ではワインの味を人並みに理解することができた。

しかし、あのワインを初めて飲むと言う最高の瞬間を、

オレはムダにしてしまったんだよ」。

こんなやり取りを、今でも思いだす。


さて、時は変わって先日の話。

あるバイク屋で、

40代くらいの女性が、同じ型のバイクですねって、

話しかけてきた。

仮にSさんとしよう。

よく喋る人で、聞きもしないことを次から次と話す。

その中で、

・バイク歴2年

・海外ツーリングによく行く(ツアー会社があるので昔と違って行きやすい)

・バイクのことはよく分からない(運転は未熟、メカもよく分からないとのこと)

こんな風に言っていた。

そこで先ほどのTさんの話を思い出したってわけ。

このSさんは、まあ、お金もってそうな感じで、

普通のライダーが一生かけてやるようなツーリングを、

わずか2年でやってしまった。

次は宇宙でもいくのかな。

まあ、価値観は色々だけど・・・

ところで、話しは変わるけど、

今、時代はなんだか急ぎすぎている感じがする。

次から次に、新しいもの、新しいシステム、新しい食事、新しい音楽、新しい芸術って感じで。

人間が進歩的な生き物であることは、

とても喜ばしいことだけど、

でも、その流れに心地よさを感じないな、最近。

僕は、もう少し時間をかけて、先に進みたいと思うよ。

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