自然災害サバイバルについて
先日、NEWSでやっていたのだが、
地震などで、帰宅困難になったときを想定し、
丸の内で働く人々が、
実際に丸の内の地下通路で一夜を明かし、
何が必要で、何を改善したらいいか?
と言う実証実験を行ったらしい。
このように市民の防災意識が高まるのは結構なことだ。
しかし、何か違和感がある・・・
Newsでは、
隣の人との間隔が狭いとか、毛布1枚では寒いとか、
そう言うことを参加者が言っていたが、
そんなことは、緊急の、その場になってみれば、
かなり些細なことで、
そもそも、それは生き残った者だけが感じられることであり、
物事の観察の視点が、いわば飛躍していると思う。
もちろんこの実験の前提が、帰宅困難になった、と言う想定なのだから、
それでいいとは思うが・・・
まあ、なんと言うか、
発想が平和なんだろうなと思う。
さて、誰がなんと言おうが、
自然災害と言う事象は、
急に、なんの前触れもなく、
かつ、誰にも公平に、差別なく、
危険を与えるものだ。
そのため、
行政が言っている自然災害の備えと言う物は、
あくまで、想定の範囲があって、
その範囲の出来事に対してのみ、備えているのであって、
もし、想定外の自然災害が起きた場合、
それに対処する道具なり物資なりは、
準備できていないのである。
しかし、これはしょうがない。
だって、無理なんだから。
中には、行政はあらゆる災害に対処しなければならない、などと主張する市民団体もあるが、
そう言う悪しき正論をふりかざすこと自体に、
僕は嫌悪感がある。
もちろん、災害後の、
地域行政や国の意思決定中枢が、
まるで役に立たない、もしくはスットンキョウな判断をするのを、
僕はこの目で見えてきたので、
それについては、改善すべきだと考える。
その原因は、システムの問題と官僚たちは言うが、
そう言うシステムを作ったのは、彼ら自身だし、
別にそのシステムを改良し、時には無視したっていいのに、
そう言うとっさの判断ができないのは、
まあ、彼らの生きている世界と言うか、
レベルの問題だから、
もうどうしようもない。
さて、毎度の持論だが、
僕が何を言いたいかというと、
どんな自然災害がこようが、そのときに、その人の生命を左右するのは、
とっさの判断と、その判断を現実のものとする体力に他ならないのである。
まず、判断と言うのは、
すべて自己責任の元ですべきで、
しかし、日頃、自己責任において判断をしていない人々は、
危機的状況において、
急に、慣れない判断をするのは、ほぼ不可能だろう。
例えば、よく、台風とか豪雨のとき、
なぜか無理やり家に帰ろうとする人々が、
ビックリするぐらいいるが、
あれを見るたびに、
危機的状況の際に、冷静な判断ができない人がいかに多いかと感じる。
以前、フランス外人部隊に所属していた方に聞いたことがある。
危機的状況の時に、集団になる連中と言うのは、
不安感を解消するために集団を形成しているのであって、
そこには、サバイブする論理性はない、とのこと。
むしろ、単体、もしくは小集団にいる方が生存率が高いといっていたことを思いだす。
また、震災後に、東北被災地の行政関係者たちと直に接してきて、
彼らは、事後の責任とか、
立場上とか、そう言うナンセンスなことを平気で言ってしまう。
おそらく、日頃から判断をするような立場にないので、
そのような発想にしか至らないのであろう。
もはや、これは人格の問題かも知れない。
これは非常に残念だし、
合理性や流動性が求められる現代において、
そのような人たちが地域行政マンであること自体が、
地域を疲弊させているのではないか。
そして、それ自体が、すでに災害であると言えるかも知れない。
被災地で、市民が、これは人災だ、などと言って、
市役所職員と口論していたのを思いだす。
次に、体力だが、
これは言わなくても分かるだろう。
自分を守るにも、家族を守るにも、
体力抜きでは、それはすべて絵に描いたモチなのだ。
ふう、
長くなった。
最後にこれは言っておこう。
僕は、自分が生命の危機に晒されたとき、
なによりもまず、
自分の生命を優先する。
そこには、ヒューマニズムとか宗教観はない。
ただ、生き残ろうとする本能があるだけだ。
ただし、僕にとっての危機レベルと、
他人のとっての危機レベルとでは、
ぜんぜん違うと思うことは付け加えておく。













