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2012年1月31日 (火)

自然災害サバイバルについて

先日、NEWSでやっていたのだが、

地震などで、帰宅困難になったときを想定し、

丸の内で働く人々が、

実際に丸の内の地下通路で一夜を明かし、

何が必要で、何を改善したらいいか?

と言う実証実験を行ったらしい。

このように市民の防災意識が高まるのは結構なことだ。

しかし、何か違和感がある・・・

Newsでは、

隣の人との間隔が狭いとか、毛布1枚では寒いとか、

そう言うことを参加者が言っていたが、

そんなことは、緊急の、その場になってみれば、

かなり些細なことで、

そもそも、それは生き残った者だけが感じられることであり、

物事の観察の視点が、いわば飛躍していると思う。

もちろんこの実験の前提が、帰宅困難になった、と言う想定なのだから、

それでいいとは思うが・・・

まあ、なんと言うか、

発想が平和なんだろうなと思う。


さて、誰がなんと言おうが、

自然災害と言う事象は、

急に、なんの前触れもなく、

かつ、誰にも公平に、差別なく、

危険を与えるものだ。

そのため、

行政が言っている自然災害の備えと言う物は、

あくまで、想定の範囲があって、

その範囲の出来事に対してのみ、備えているのであって、

もし、想定外の自然災害が起きた場合、

それに対処する道具なり物資なりは、

準備できていないのである。

しかし、これはしょうがない。

だって、無理なんだから。

中には、行政はあらゆる災害に対処しなければならない、などと主張する市民団体もあるが、

そう言う悪しき正論をふりかざすこと自体に、

僕は嫌悪感がある。

もちろん、災害後の、

地域行政や国の意思決定中枢が、

まるで役に立たない、もしくはスットンキョウな判断をするのを、

僕はこの目で見えてきたので、

それについては、改善すべきだと考える。

その原因は、システムの問題と官僚たちは言うが、

そう言うシステムを作ったのは、彼ら自身だし、

別にそのシステムを改良し、時には無視したっていいのに、

そう言うとっさの判断ができないのは、

まあ、彼らの生きている世界と言うか、

レベルの問題だから、

もうどうしようもない。


さて、毎度の持論だが、

僕が何を言いたいかというと、

どんな自然災害がこようが、そのときに、その人の生命を左右するのは、

とっさの判断と、その判断を現実のものとする体力に他ならないのである。

まず、判断と言うのは、

すべて自己責任の元ですべきで、

しかし、日頃、自己責任において判断をしていない人々は、

危機的状況において、

急に、慣れない判断をするのは、ほぼ不可能だろう。

例えば、よく、台風とか豪雨のとき、

なぜか無理やり家に帰ろうとする人々が、

ビックリするぐらいいるが、

あれを見るたびに、

危機的状況の際に、冷静な判断ができない人がいかに多いかと感じる。

以前、フランス外人部隊に所属していた方に聞いたことがある。

危機的状況の時に、集団になる連中と言うのは、

不安感を解消するために集団を形成しているのであって、

そこには、サバイブする論理性はない、とのこと。

むしろ、単体、もしくは小集団にいる方が生存率が高いといっていたことを思いだす。

また、震災後に、東北被災地の行政関係者たちと直に接してきて、

彼らは、事後の責任とか、

立場上とか、そう言うナンセンスなことを平気で言ってしまう。

おそらく、日頃から判断をするような立場にないので、

そのような発想にしか至らないのであろう。

もはや、これは人格の問題かも知れない。

これは非常に残念だし、

合理性や流動性が求められる現代において、

そのような人たちが地域行政マンであること自体が、

地域を疲弊させているのではないか。

そして、それ自体が、すでに災害であると言えるかも知れない。

被災地で、市民が、これは人災だ、などと言って、

市役所職員と口論していたのを思いだす。

次に、体力だが、

これは言わなくても分かるだろう。

自分を守るにも、家族を守るにも、

体力抜きでは、それはすべて絵に描いたモチなのだ。

ふう、

長くなった。

最後にこれは言っておこう。

僕は、自分が生命の危機に晒されたとき、

なによりもまず、

自分の生命を優先する。

そこには、ヒューマニズムとか宗教観はない。

ただ、生き残ろうとする本能があるだけだ。

ただし、僕にとっての危機レベルと、

他人のとっての危機レベルとでは、

ぜんぜん違うと思うことは付け加えておく。

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2012年1月26日 (木)

PARACUP 2012 開催と、僕の想い

4年前だったか、あまり記憶にないが、

ある人に、

チャリティーのマラソン大会があるから、

山本くんも参加しなさい、

そう言われたのがきっかけで、

PARACUPとの関わりが始まった。

PARACUPは、

「世界のこどもたちに贈るラン」と言うテーマを掲げる、

チャリティー主旨のマラソン大会。

※参加費がアジアの貧国のこどもたちに寄付される

いや、PARACUPは、

大会と言うよりも、イベントと言った方がいいかも知れない。

なぜか?

それは、フツーのマラソン大会が、

人と競うとか、記録を目指すことが、

参加のモチベーションになっていることに対し、

PARACUPは、

参加することに意義があり、

また、この場を通じて、自分と世界のつながり、

会社や過去の積み上げでできた人脈以外の人脈の開拓などに、

その場の意味があるように思う。

参加者データをみても、

ふだん走らない、と言う人たちの参加率が

50%以上になる。

また、リピーター率も高く、

第1回目は、参加者が500人に満たなかったのが、

去年8回目には、ボランティアも含め6,000人にもなっている。

※ボランティアも参加費を払います

こう言うと、まじめに走っているランナーには関係ないさ、

※まじめと言う言葉の定義はさておき

などと言う言葉も聞こえてきそうだが、

それは違う。

実際、キロ4分で走り続けられるような、

高レベルのランナーも少数ではあるが、

参加する。

彼らに聞くと、

PARACUPは別ですよ、走ること、その場にいることが純粋に楽しいから。

まったく、その通りだ。

一生と言う長いスパンで、

いつも競争に集中するのは難しい。

時折、PARACUPのような、

心の潤いを感じられ、

しかも、自分がその主役になれるようなイベントには、

ぜひ、毎年参加すべきだろう。

私も4年前に参加してから、

その心地よさ、楽しさに魅了され、

勝手に色々と関わらせてもらっている。

今は、くつひもチャリティーと言うものをやっていて、

これは、参加費とは別に、

500円を支払い、靴紐を買い、

実費(145円程度)以外を寄付すると言う仕組み。

この取り組みも今年で3回目になる。

さらに、PARACUP公式練習会も担当させてもらっている。

練習は3月までの毎週水曜日に行っているので、

ぜひ来て欲しい。

※これらの取り組みはこちら
http://kutsuhimo.net/


さて、今日、私が何を言いたいかというと、

チャリティーや社会とはどうあるべきかとか、

いや、もっとシンプルにいえば、

一人の人間が、一人の人間として生きていく上で、

これからどんな気持ちを持つべきか?

これが言いたい。

しかし、未熟ゆえ、

その答えを体系的に言うことはまだ出来ない。

もう少し修行をして、その答えを導き出したいと思う。

ただ、現段階で言えることもある。

いつも言っていることだが、

人の幸せは、

・表現すること/表現ができること

・認められること/必要とされること

・共感することが多い/共感できる人が多いこと

この3つに集約されると僕は考えていて、

そのためには、

ネガティブな思い込み(特に自分にはできないとか、あの人はこうだからなどの決めつけ)や、

ない物ねだり、ねたみ、を捨てて、

・いつも素直な気持ちをもつこと

・いま生きているのは心や魂を磨くためと思うこと

・愛する人のために笑顔を絶やさないこと

こんなことが、きっと生きていく上で、世の中には必要なのだと思う。

言われて見れば、当たり前のことだ。

自分はそのようにできているか?

いつも自問自答だけれど、

その苦しみも、いつかはきっと、実を結び、

花開く日が来るんだと思う。

何度も言うけど、

いつも笑顔でいること

これが一番大切。

そのために、僕は鍛錬をやめない。

今日もありがとう。

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2012年1月18日 (水)

ハンマートレーニングをしながら思うこと 鍛えることの最終段階

夜、暗闇の中で、ハンマートレーニングをしながら、

ふと思った。

僕の鍛錬の目的は、

すでに肉体の性能を上げることからは、

脱していて、

魂を磨くことにあると思っている。

※おや?大丈夫ですか~?って言われますが(笑

まあ、これについては、真剣にそう思っています。

さて、そんな風に感じながら、ハンマーを振っていたのですが、

その瞬間、閃きがありました。

感覚的なことなので、言葉にするのは難しいですが、

このまま鍛え続けて、

仮に、魂を磨くことが完成したならば、

いずれ、鍛えることは不要になるのではないか?

と言うことです。

よくよく考えてみれば当たり前のことで、

完成したのだから、それ以上、手を加える必要はないわけです。

もちろん、魂を磨くことが完成するなどとは、

到底思えませんし

仮に、魂を磨くのが完成した!と思っても、

時間がたつにつれ、

また、魂は曇ってくるでしょうから、

※特に僕は影響されやすいので

やはり、死ぬまで精進する必要があるのでしょう。

そんな、堂々巡りの考えに陥ってしまった、33歳の夜でした。

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2012年1月11日 (水)

とりあえずハンマーを振るのです

タイヤをハンマーで叩く。

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ただの、アホのように見えます。

いや、アホかも知れません。

自分でも、自分がどう言う方向にいくか分かりません。。。

しかし、こうやって、ハンマーを振っていると、

これが正解だなっ!って思うんですよ。。。

だから、とりあえずハンマーを振るのです。

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2012年1月 6日 (金)

皇居ランナーのマナーをみて思うこと

毎度の持論ですので、ご注意ください。


一時、新聞やマスコミで、

皇居ランナーのマナーがよくないと書かれることがあった。

それらを読むと、

ほんの一部の悪質な人のすること誇張して、

さもそれが全体がそうであるかのような、

ムラ社会ニッポンのお得意の論法だと言うことに気づく。

しかし、一部と言えども、そう言う人がいるのは事実であろう。

さて、私も一応、人さまに運動指導をすることがあるのだが、

ランナー個人と言うよりも、

ランナーが集団になったときの、

個々人の振る舞いに、

疑問を感じることがある。

例えば、

狭い道を10人くらいで走っているとき、

1列で左側を走りましょうと言っているのに、

横に膨らんだり、

無理に追い越そうとしたり、

後ろを見ずに急に飛び出してきたりする。

こう言う行動を見て、

マナーと言うよりも、

危険判断と言うか、

周囲に対する気遣いというか、

ルールを守ると言うか、

ともかく、基本的なことができていない。

また、マラソン大会関係者からよく聞くのは、

大会後に、ゴミが散乱すること。

これは、大勢の人がいるから、

ちょっとくらいゴミを捨ててもいいんじゃね的な心理が働くのか、

もしくは、疲れているので、ゴミとかどうでもいいし的な心理なのか、

はたまた、こっちは金払ってんだからゴミぐらいいいだろ的な心理なのか・・・

まあともかく、社会人としての根本的なあり方の問題だと思う。

さて、これらの問題の根本はなにか?

色々あると思うが、

僕は、

集団行動の経験が少ない

ことが理由の一つと思われる。

皇居ランナーであれ、大会であれ、

個人と言うよりかは、

個人が集団になったとき、

そのコントロールがきかない。

私の経験では、集団指導をするとき、

人の話を聞いていない人が多すぎる。

だから、注意点も守らないし、

大概、そう言うタイプの人は、

注意散漫であることが多いので、

運動時の運動以外のリスク(自転車にぶつかるとか)が高い。

で、後から、聞いてませんとか平気で言う。

こうなってしまうのは、自分がその集団の一部になっていることで、

個人の人格を隠せると思っているからではないか。

つまり、何かあったときに、怒られるのが自分ではなく、

その集団の代表なり、全体がその対象なので、

つまり、自分個人のダメージが少ないから、

マナーを守らないのではないか。

僕はたまたま自衛隊を経験したので、

集団行動についてはそれなりの考えをもっている。

まず、集団に必要なのはルールである。

その次に哲学や思想の共有がある。

どんなに崇高な哲学を持っていても、

ルールを作れない、守れない人には、

自分の思想さえも守れないのではないか。

おっと、脱線。

話を戻すと、

こうなってしまったのは、

集団行動をしらない個人主義者が増えてしまったからではないだろうか。

心地よい個人主義者と言うのは、

集団行動を理解したうえで存在するのだと思う。

これが、社会や教育や家庭環境の問題なのかはわからないけれど、

とにかく、集団で行動するときのマナーを知らない人が多すぎると感じる。

時間を守る(オレができてないか

話を聞く

雑音を立てない

身の回りの整理整頓

などなど、基本的なことを知らない。

これでは子どもと同じ。

子どもなら、まだ躾けられる可能性はあるが、

大人になっても、そんなレベルでは、

改善の余地は少ない。

※自衛隊なら可能か?

さて、皇居ランナーのマナーの話からだいぶとんだが、

結論としては、

個人のマナーを身につけると同時に、

集団行動のマナーやルールも重要ではないかと言いたい。

もちろん、そのルールと言うのは、

学校の校則のように、坊主じゃなきゃだめとかなどの意味不明なルールではなく、

集団がピシッと機能するための、

合理的ルールであるべきだと思う。

それを体得すれば、

社会の中で、今以上に、自分をうまく活かせるのではないだろうか。


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2012年1月 4日 (水)

今年を語る二人

新年早々に、

何をやっているかって言うと、

朝飯をゲットするために、

釣りをしてました。

宮城県の雄勝町の穴場で。

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写真に写っているのは、

右が僕で、

左が島根って言う友達。

去年、宮城で知り合った。

歳も出身地も血液型も、たまたま同じだったので、

意気投合した。

そんな奴と、

新年早々、釣りをしながら、

今年はどうすっかなとか、

おいおい、もう33歳だよ・・・

などと、不安の募る話題ばかり(笑

結論はでないけど、

それぞれが生きる場所で、

自分が納得できる結果を出さなきゃいけないって思う。

それと、時代の変化に乗り遅れないようにしたいね。

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本年もよろしくお願いします!

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2011年12月26日 (月)

夜中に走る女性を見て思うこと 

夜中の山手通りをバイクで走っていると、

ランニングをする女性の姿をよく見る。

時計は0時を回っている。

こんな時間に走るの?

夏だけじゃない。

いま、この冬も同じで、走る女性をよく見る。

以前、twitterで、夜中になんで走るの?ってつぶやいたら、

10人くらいの女性から反応があり、

「デトックス」のため、

「気分を変えたい」「夢を叶えるため」、

みたいなことを言っていた。

現代日本女性は、社会に出てガンガン働いている。

見方によっては、男性よりも成長率は高いかも知れない。

そんな状況のなかで、

いいことばかりではないだろう。

当然、傷つくことも、不安も、汚れることも多いだろう。

それを、彼女たちは、走ることで浄化しているのかも。

この浄化と言う感覚。

トレーニングなりエクササイズをやっている人にしか分からない。

セロトニンがどうのこうのとか、血流がどうとか、

そんなこと、もうどうでもいいよ。

なんて言うかな、

すでに実践している人は、分かってるよね。

この浄化する感覚。

最近思うのは、

体を動かすのってさ、

明確な宗教を持たない現代日本人にとって、

ある種の「御参り」みたいなもんじゃないかと。

神社に行って、心を落ち着けて手を合わせれば、

なぜか自動的に、心洗われるじゃない。

あの感覚に似てない?

少なくとも僕は、20代後半からは、明確にそう思っているよ。

だから、毎日のトレーニングは、

肉体の鍛錬であると同時に、

精神や魂を磨くことになっている。

きっとさ、体を動かして、

※しかも自分にちょっと厳しくね

心が浄化されたり、

魂が磨かれる感じって、

もしかすると、人に組み込まれた機能なのかも。

ほら、スマホってさ、時々、電源切るとリフレッシュするじゃない。

そんな感じ?

んで、一度、この機能を発動させちゃうと、

もう、その行為なしでは、生きて行けない!みたいな(笑

まあ、物事は、ほどほどにって感じですが、

夜中に走る女性を見ててさ、

なんか、体力アップとか、ダイエットのため、

みたいには見えないのよ。


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2011年12月15日 (木)

鍛錬の種類と悟りについて

鍛錬には2つある。

これをツイッターでつぶやいたが、

質問が多かったので、補足したい。

まず一つは、食事や睡眠など、

疲労を回復できることのできる環境での鍛錬。

これは通常のトレーニングと考えてもらえばいいし、

世間の多くの人を対象にした場合、

この意味での鍛錬がまさに鍛錬の意味を持つ。

もう一つは、食事や睡眠がとれない環境での鍛錬。

分かりやすく言うと、

修験者や僧侶が、

食べられない眠れない環境を自らに課すようなことだ。

この鍛錬の違いによる、

成果の違いはなにか?

それはかなり重要である。

まず前者は、

体力増進はもちろんだし、

ストレス発散や健康管理などの成果が得られる。

また、精神を強くしたり、

すさんだ気持ちを浄化するような作用もある。

では後者だが、

私も千日回峰のような荒行を当然したことがないので、

あくまで僧侶と話をしたことや、

そのデフォルメ版を体験した程度のことしか言えないが、

「悟りを開く」

ような作用があるらしい。

おいおい、山本よ、

ついに悟りを語り出したか・・・って声が聞こえそうですが(笑

で、この食べられない眠れない状況と言うのは、

本能を抑制するわけで、

つまり、生きるために必要な本能を、

自らの意思でストップしつつ、

それなのに、生への光を見出そうとする、

まことに難儀な状況と言えます。

ですから、悟りが開けるらしいのですが、

まあ、これについて詳しく知りたい方は、お近くの僧侶に聞いてください。

山本は煩悩の塊なので。

ほいほい。

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2011年11月30日 (水)

トレーニングと非トレーニングの境界線

僕が高校生の頃、

毎朝1時間以上、けっこうなスピードで自転車を漕ぎ、

学校に通っていたが、

※まあ、ろくに行ってはいませんでしたが(苦笑

この行為によって、

確実に体力は向上したと思う。

さて、唐突ですが、、

この行為は「トレーニング」と言えるのでしょうか?


この例では、

身体に負荷をかけ、それが向上したのだから、

これをトレーニングと称して、一般的には問題ないと思う。

しかし、自称トレーニング伝道師の山本として、

一歩譲れない点がある。

それは、トレーニングと言う行為が、

たんに、体力向上と言う物理的な成果のみならず、

心を強化したり、心を浄化すると言う、

内面的で、非物理的な成果を生み出すものだと、私は考えているから、

※ごめんなさい、心の動きもある種の物理現象かも知れませんね

つまり高校生当時の僕は、明確に思い起こせないけれど、

自転車通学を、めんどくせ~って思っていたので、

そんな気持ちでは、心は鍛えられることはなく、

毎日の通学は体力強化にはなったけれども、

心の強化にはなっていないと言える。

だから、真の意味での「トレーニング」とは言えない。

心の強化なり浄化なりは、

あくまで、心を鍛えると言う明確な意思を持って、

肉体に鞭を打たないと、成しえない。

だってさ、

そうじゃないと、毎日何時間も歩いて水汲みにいくアフリカの人とか、

毎日重いものを担いでる荷揚げ作業の人とか、

立場上、やむなく体が鍛えられている人すべてが、

心が強化(浄化)されてしまう。

※もしかしてそうなのか?

また、心を鍛えると言う意識を持てるか持てないかは、

環境に左右される場合が多い。

誰かとおしゃべりしたり、携帯を気にしたり、

わがままに自己快楽だけを追求したり、

気軽にエスケープできるような環境でのトレーニングなどは、

心を強化(浄化)できるとは言い難い。

よく聞く、フィットネスクラブに通って、

週3回エアロやってます、ランニングしてますでは、

その人が得られることの中身はあまり期待は持てないかもね。


さて今回、トレーニングと非トレーニングの境界線についてブログを書いたのは、

その行為に対する意識付けが重要で、

その如何によって、得られる成果はガラッと変わってくると伝えたかったから。

健康ブームのおかげで、体を動かす人が増えたのは喜ばしいけれど、

もし、その行為に、心を意識することが抜けてたら、

気分転換・リフレッシュにはなるけれど、

なんか、もったいないね。

もっと、深いこと感じられるのに。

あっ、でも勘違いしてはいけないのは、

心を意識するなんて、

実は机上の空論だから、

まずは、なんも考えずに、なんでもいいから体を動かすことの方が先決だってこと。

そこから、すべてが始まると思う。

ではでは。

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2011年11月21日 (月)

横須賀シーサイドマラソン チャリティーランを終えて思うこと ~日本のこれから~

先日、第36回横須賀シーサイドマラソンが行われました。

今大会から、参加費とは別に1000円を払い、

寄付する仕組みを導入しました。

つまり、寄付する/しないは、

個人の自由意志。

これまでも、参加費にはじめから寄付金が含まれている

ような大会はありましたが、

今大会のように、

参加者の意思で、寄付する/しないを自己決定することが、

これからの時代に、必要な構造だと僕は考えています。

それは、自分の意思を自分で決定することは、

いわば、立場、主張の表明であるからです。

話しはマラソンから飛躍しますが、

流動性の低い、閉塞感の漂う今の日本においては、

立場や主張の表明は、

周囲との軋轢を生み、

場合によっては生活しづらくなる要因かもしれない。

だから、これまでの日本には、

周囲との調整がうまいタイプ、

もしくは漫然と「人がいい」みたいなタイプが、

重宝されてきたし、

人並みの生活をするには、

老朽化したヒエラルキーのなかで、

暗黙の了解を遂行できる、

黙して語らず、

YESマンみたいなタイプが

理想とされてきたと思いますし、

そのようなタイプでいることが、

社会的生存率を高めたのだと思います。

※武士道的な黙して語らずとは別です

しかし、これからの時代を楽しく生きるには、

自己の立場、主張の表明は、欠かせない要素になると思います。

なぜなら、様々な主義主張、人種、思想、宗教、真実と虚構の荒海のなかに、

日本と言う船も晒されるからです。

もし、様々な考えが成立する世界観の中で、

自分の立場を表明しないのであれば、

それは、支え会える仲間を作れないことになり、

社会的生存率をかえって下げることになるのではないでしょうか。

もちろん、自分の主張と違うとしても、

その主張が強いもので、

長いものに巻かれろ的な発想で、

大国に隷属するのをなんとも思わないのであれば、

引き続き、前時代的な生き方でもそれはいいでしょう。

これも、ある種の社会的な生存率をあげる方法だと思います。

※しかし日本は世界的にみてすごい大国なんですがね

さて、マラソンに話を戻しましょう。

なぜ僕が、横須賀シーサイドマラソンさんの話を引き合いに出したかと言うと、

昨年、ちょっとだけ出たラジオ(たしかFMヨコハマ)を、

横須賀シーサイドマラソンさんの代表の方が聞いていて、

それでお電話を頂き、

そこからのご縁で、チャリティーの仕組みを取り入れていただくことになったからです。

これまでも、他の大会には、寄付の仕組みを取り入れてくださるように、

ちょいちょい営業に行っているのですが、

なかなか難しいのが現状で、

※ひとえに、僕の提案力の問題が大きいと思いますが

そのなかで、横須賀さんに寄付の仕組みを取り入れていただけたのは、

運営スタッフの方々が、

「若い」からだと思います。

そして逆に重鎮の方々は、

若いスタッフの方々のやることを信用し、

任せたからだと思います。

この良い流れが、横須賀さんにはあったと思います。

しかし、営業に行った他の大会では、

※営業と言う言葉を使いましたが、私は1円も頂いていませんし、そのつもりもありません

参加者に自己決定させるのが嫌みたいで、

やるなら、はじめから参加費に寄付額を組み込んでしまいたい、

と言う意見が多く、

でもそれでは、本人たちには、

なんの気づきもないし、

悪い意味での、みんな一緒、みんな公平みたいな、

前時代的な構造から抜け出せない。

人は人、

自分は自分、

いろんな主張があっていいんだと僕は思います。

大会運営側や、もっと言えば、

社会をつくる側の人たちは、

自由な発想を受け入れられるような、

柔軟な姿勢でいることが重要なのだと思います。

いまの日本は、そう言った意味で、

排他的であり、

筋肉に例えるなら、

重い物は持ち上げられても走れない、

長時間走れても重い物は持ち上げられない、

トレーニングはできてもスポーツは苦手

ちょっと歩くと息切れする、

なるべく動きたくない、

と言うような、いわば順応性の低い体質、

そして生命力が減退している体質になっています。

暴論かも知れませんが、

このような体質になってしまったのは、

端的に言えば、社会を支配してきた層の人々の高齢化にあります。

さらに、その人々によって教育されてきた若い世代が、

その輝きを失い、脆弱化したからだと思います。

歳をとった人も、若い人も、

それぞれに問題があるし、

究極的には個人の問題です。

※私の尊敬する経営者は80歳近くになりますが、いつでも若い


ふぅ。。。

またマラソンから話が反れ、

取り留めのないことを、長く書きすぎました。

結論を言いますと、

横須賀マラソンさんで、今回のチャリティーランに参加していただいた方の人数は、

総参加数の3割近くになります。

※公式発表ではありません、概算です

全体の3割が動くと、残りも動くみたいな定説がありますが、

僕はこの数字を肯定的に捉えたい。

社会は、まだまだ躍動するエネルギーを失っていない。

大切なのは、

どんなゴールを目指すのも、

人の自由だと言うこと。

そして、先頭を走る人も、中間の人も、最後尾の人も、

自分で決めたゴールまでたどり着く勇気を忘れないこと。

さてさて、次はどこに営業に行こうかな。


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