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2012年5月24日 (木)

最高のワインを飲んで思うこと

私の話ではありません。

以前お付き合いしていた、クライアントの話。

この方は、30代で独立し、瞬く間に億万長者って人。

当時の僕にとって、かなりの尊敬&憧れの方でした。

仮にTさんとしましょう。

いつだったか、Tさんと麻布のバーでワインを飲んでいて、

「オレは世界最高の(と思われる)ワインを、金が入ったので飲んでみた」。

ワイン狂のTさんにとってみれば、当然のことでしょう。

「ただな、いま思えば、それは失敗だったよ」

どうしてですか?

「だってさ、その最高のワインを初めて飲むと言う瞬間を、

ワインの経験値が低い当時のオレでは、

じっくりと味わえなかったんだから」。

なるほど。

「あれはもう20年ちかく前のことだが、

あれから知識も経験も増えて、

今ではワインの味を人並みに理解することができた。

しかし、あのワインを初めて飲むと言う最高の瞬間を、

オレはムダにしてしまったんだよ」。

こんなやり取りを、今でも思いだす。


さて、時は変わって先日の話。

あるバイク屋で、

40代くらいの女性が、同じ型のバイクですねって、

話しかけてきた。

仮にSさんとしよう。

よく喋る人で、聞きもしないことを次から次と話す。

その中で、

・バイク歴2年

・海外ツーリングによく行く(ツアー会社があるので昔と違って行きやすい)

・バイクのことはよく分からない(運転は未熟、メカもよく分からないとのこと)

こんな風に言っていた。

そこで先ほどのTさんの話を思い出したってわけ。

このSさんは、まあ、お金もってそうな感じで、

普通のライダーが一生かけてやるようなツーリングを、

わずか2年でやってしまった。

次は宇宙でもいくのかな。

まあ、価値観は色々だけど・・・

ところで、話しは変わるけど、

今、時代はなんだか急ぎすぎている感じがする。

次から次に、新しいもの、新しいシステム、新しい食事、新しい音楽、新しい芸術って感じで。

人間が進歩的な生き物であることは、

とても喜ばしいことだけど、

でも、その流れに心地よさを感じないな、最近。

僕は、もう少し時間をかけて、先に進みたいと思うよ。

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2012年5月 9日 (水)

「なぜ人は祈るのか」

ある晴れた、気持ちのいい早朝、

僕は、童貞の青年が、

意中の彼女と遊びに出かけるような、

最高の気分で、目を覚ました。

そうだ、今日は一人で船を運転するんだ。

これまでは、ベテラン船長がついていてくれたが、

今日は一人で出かける。

それは、誰にも言っていない。

だって、待ちに待った彼女とのデートを、

いちいち、人になんか言う?

言った瞬間に夢が覚めてしまいそう。

僕は静かに玄関を開けて、朝焼けの港を目指した。

これから乗る船が見える。

僕は胸の高鳴りを必死に抑え、

船を係留しているロープを、静かに手繰り寄せる。

その重さが、実に心地いい。

誰にもこの瞬間を邪魔されたくない。

だから、音を立てたくない。

なのに、自分の心臓の音が大きくて、

家で寝ている奴らに聞こえてしまいそうだ。

燃料をチェックし、メインスイッチをONにし、

いよいよエンジンをかける。

小気味よいフォーストエンジンが、

よどみなく動きだす。

幸福な時間の始まりだ。

すべてが、順調だった。

朝日は、向こうの山の頂上まで上がり、

いよいよ海を明るく照らしている。

さあ、行こう。

自分に言い聞かせる。

きっと、楽しい時間が始まると。

波は穏やかで、視界も良好。

すべてが僕に味方してくれているようだ。

そして10分、20分と、僕のためだけに時間は流れた。

ハズだった・・・

『ガクンッ』

んっ!!!???

直感的に悟った。

エンジンが止まったのだ。

なんの前触れもなく、急に止まった。

海の上では、この5人乗りのボートなど、チリほどにもならない。

言葉にならない恐怖感が、

僕が20年来、筋肉で隠そうとしてきたノミの心臓を支配した。

筋肉などでは、私は隠せないぞ。

恐怖が僕の意思を嘲り笑う。

きっと、0.0何秒の時間だと思うが、

僕は恐怖と言う絶対的存在の虜だった。

なんせ、船舶免許はとりたてで、

危機対処どころか、何が危機かも、判断できないレベル。

この広い海で流されたら、どうしようもない。

恐怖が寒気となって、全身の筋肉を硬直させた。

しかし、まだ大丈夫だ。

港は見える。

電波も届く。

僕は冷静さを取り戻し、

まずはバッテリーが上がらないように、イグニッションを切り、

恐る恐る船外機を上げてみた。

すると、プロペラにロープが絡まっている。

・・・

ロープを切る道具は持ってきていない。

ロープは海の底深くまで伸びている。

僕の腕力でも、引っ張りあげることは出来ない。

もしかしたら、海の奥底で、

人間以外の「誰か」が引っ張っているのではないか・・・

まだ僕は恐怖に支配されている。

怖い映画を見て、トイレに一人で行けなくなった子どものようだ。

思考が交錯する。

先日、ベテラン船乗りが言っていた。

船にナイフくらい積んどけって。

その日の朝、僕は船に乗るのが楽しみで、

そう言う大事なことが、すっかり抜けていた。

だから、防寒着も、水も積んでいない。

燃料は確認したけれど、

半分あるから大丈夫でしょ、とタカをくくっていた。

そんな自分の

「甘さ」

を酷く後悔した。

いや、後悔と同時に、

『祈っていた』

何にか?

神か、運命か、天か、

それとも、愛する人か。

でも、その時は、自分は祈っている、なんて、

感じていなかったと思う。

今から思えば、

そのときの僕の心情を適切に表現する言葉が、

『祈り』

と言うだけ。

その祈りが届いたのか、

探す場所もさしてないような、小さな船内を必死に見渡したところ、

錆びた包丁を発見。

無理な姿勢で、ロープに挑む。

いつも以上に、腕に力がこもる。

海で遊んだことのある人なら分かると思うが、

海で物を落とせば、それは絶対と言っていいほど、

拾うことはできない。

落とした数秒後には、視界から消え、

後には絶望しかない。

だから、包丁を握る手のひらは、絶対に緩めない。

ここは、日頃鍛えておいてよかったと思う。

10分、いや15分か。

ロープを切ることに成功した。

この間、

包丁が折れないように、

包丁を落とさないように、

沖に流されないように、

そして、エンジンがかかりますように・・・

と、祈っていたと思う。

言葉ではなく、

感情の塊として。

重たいロープは自分の重さに耐えかねて、

海の底に帰って行った。

ああ、そうだ、思い出した。

いつだったか、

真冬の赤岳山頂付近で、滑落したときもそうだった。

わずか数秒の中に、

僕は祈っていたんだ。

何を祈った?

誰に祈った?

いや、そう言うことじゃない。

ただ、ただ、

死の恐怖に60兆すべての細胞が瞬間的に支配され、

でも、次の瞬間、すべての細胞が、

必死で生きようと爆発したんだ。

それが、今思えば、

祈りって感覚だったのかも知れない。

話を戻そう。

何事もなかったかのように、にエンジンはかかった。

助かった・・・

そして、僕は海の遠くのほうを眺め、

感謝した。

何にか?

神か?愛する人にか?

それは分からない。

ただ、無事だと言う事に、

全身の細胞が、感謝したのだ。

ふと見上げると、朝日はさっきよりも高くなっていた。

そのせいだろうか、恐怖は見えなくなっていた。

僕は、港に舵を切り、船を係留し、家に戻る。

この間、まるで自分が自分でなかったようだ。

体が自動的に動いてくれた。

僕の初デートは、散々な思い出になってしまったが、

でも、この教訓を活かせば、きっと次こそはうまく行くだろう。

そして翌日。

海で働く漁師を眺めていて直感した。

そうか、そう言うことか。

自然を相手にすると言う事は、

いつも危険と隣り合わせ。

だから、『祈り、感謝』するのか。

これは、知らぬ間に、そう言う宗教観みたいなものを、

子どものころに植えつけられたのか、

それとも、知性が思考して、祈りと言うストーリーを作りだすのか。

いや、僕はこう思う。

もっと動物的なことだと。

危機に晒されたとき、

人と言う動物は、

その本人の思考とは関係なく、

勝手に、自然に、当たり前のように「祈り、感謝」するのだ。

それはまるで、空腹時に、目の前にある牛丼の魅力に逆らえないことと同じ。

はたまた、徹夜をしていて、知らぬ間に眠ってしまっているかのよう。

とにかく、『人は生理現象として祈り、感謝する』のだ。

それが神に対してなのか、何を祈るのかは、分からない。

ただ、言葉にすれば、祈りと言う単語が一番相応しいから、

そう言っているだけ。

勘違いして欲しくないのは、

僕が感じた祈りは、

神社で祈れば、自分の都合のいい願いが叶うと言うのとは違う。

自分の生命が危機に晒されたとき、

大切な人が危険な状況にいるとき、

もしくは、どこの誰かはわからないけど、

誰かが苦しんでいるとき、

人は、『祈らずにはいられない』のだ。

そして、その無事を知ったならば、

全身の細胞を引き連れて、

自分の全部で、感謝するのだ。

僕はそう感じる。

人は言葉によって縛り付けられているが、

今回テーマにした、

祈りや感謝のようなことは、

言葉ではなく、

ある種の身体的な生理現象で、

それが人の根底にあり、

その部分を共有することが、

人と人とが、幸福に生きるための真理ではないか。

現代人は、果たしてどの方向に向うのか。

さて、日本は間違いなく、世界一安全である。

しかしそれは、死と、もっとも遠い。

死を感じることが少なければ、

祈りや感謝も消えるのか?

大切な人を失わなければ、祈りを感じないのか?

日頃から祈るような環境になければ、

祈りと言う動物的なシステムはなくなってしまい、

感謝も生まれないのか?

この辺りは、もう少し後で考えよう。

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2012年4月30日 (月)

暗闇登山で起こること

先日、久々に暗闇登山をしました。

暗闇登山とは、日没2~3時間前に山を登り始め、

日没後も、ある程度の場所まで歩くと言うものです。

そして、山中で野宿すると言うものです(あくまで僕の定義ね)。

最初に断わっておくと、

暗闇登山をするには、経験もそれなりに必要で、

その山を、昼間に歩いて道を熟知しておく必要があるし、

明瞭なトレイルのない場所では、危険なので辞めた方がいいでしょう。

だから、ある程度は、安全が確保された状態で行うのがベスト。

Imgp0568

※山中でみつけた巨石


さて、暗闇の山中、

一人でテクテク歩いた経験がある人なら、

誰しも分かってもらえることだと思いますが、

様々な気付き、目覚めがあります。

今日は、それをかいつまんで紹介したいと思います。

まず、暗い山中は、人気がない(人気のない山を選ぶ)ので、

と~っても心細い。

木の枝が、人に見えたり、

ザザッと言う音が、

人の気配に感じたり、

そのうちに、空耳まで聞こえてくる始末・・・

そんな時、なんて自分はビビリなんだろう、って思います。

さらに、妙に自分の背後が気になる。

でも、だからと言って、一度でも見たらお終い。

もう、ず~と気になりっぱなし。

あるはずのない人の視線や、

恐怖感が作り出す、もののけの気配、

そう言った、心のなかの弱い分に、

支配されてしまう。

まあ、これが遊びの山だから、弱い心に支配されてもいいけど、

現実の社会での仕事や人間関係なら、

その弱さが、間違った判断につながりそうだ。

そう言うことを考えながら、

なんとか、後ろを振り返らずに、鼻歌でも歌いながら歩き続けるしかない。

あれ?

この鼻歌、なぜ選んだの?

そうそう、昨日youtubeで聞いたっけ。

あれ?

鼻歌だけじゃないぞ、

先週、あいつが言ってたことを、頭の中で繰り返している。

あれあれ?

確か、数年前に、あの人が言ってたこと、いまなぜ、頭の中によみがえる?

そう、何が言いたいかというと、

思考が錯綜するのです。

もっと仕事を合理的に行う仕組みとか、

そう言うことを考えればいいのに、

なぜか、意味のないフレーズを、頭のなかで繰り返してしまう。

そして、もっと時間がたつと、

あれ?いま、夢の中だっけ・・・?

さっき居た家の中で眠りこけて、

その夢の中で歩いているのかな?

もう、こうなると、現実と夢の境界線も曖昧になる。

このへんは、100km走とかやったことがある人なら、

理解してくれると思う。

そしてさ、急な上り坂も、危ない下り坂も、

そんなに疲れずに、いつの間にか登り切ってしまう。

五里霧中とはこのことか。

そうして、なんとか今日の目的地について、

野宿の準備を始める。

木とか石とか、寝るのに邪魔になりそうなものを、

ちょいっとどけて、

バーナーを出したり、

ツェルトを敷いたりして、

そんな時、

あっ、と急に気づくの。

これは現実だって。

そうなると、また振り出しにもどってしまって、

もののけの気配が気になる。

例えば、一度 目をつぶって、

次に目を開けるとき、

目の前に何かが立ってるんじゃないかとか、

コッヘルのカチャカチャと言う音で、

もののけが僕に気付いてしまうんじゃないかとか、

もう、とにかく、一つ一つの動作が心を削る。

そんな状況でも、

なんとか飯を食べて、寝床につく。

地面と僕との間には、

ツェルト1枚しかない。

そして、何分か経つと、不思議なことが起こる。

なんて言うのかな、

その場と一体になれるって言うか、

いや、もしかすると、自分も 「もののけの一人」なんじゃないか?

みたいな感じになっている。

だから、恐怖って言う感じは薄らいで、

筋肉の緊張はほぐれ、

木が呼吸するように、

自然体になれる。

そして、自分の中の、温かい血液の流れと、

心臓の鼓動が、僕自身の存在となる。

そこに、さっきまでの、ゴチャゴチャした鼻歌や記憶の繰り返しなどは、

一切ない。

だから本当に静か。

長くなったけど、

こんな経験を時々したくって、

暗闇登山をするの。

そして朝。

日の出とともに目が覚めて、

背骨一つ一つを伸ばすように、大きく背伸びして、

肺の隅々まで、細胞の隅々まで酸素が届くまで、

深く深く、呼吸をする。

そうすると、また、僕は人間に戻る。

今、ここは、

夢じゃなく、現実なんだって理解できる。

さあ、今日を精一杯、生きよう。

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2012年4月26日 (木)

だからと言って、人は安全だけが好きなのではない

釣り針を垂らすと、

魚たちは、

それを危険と察知し、

そう簡単にはくいつかない。

おそらく、そのときの魚たちは、

これは釣り針と言うもので、

食いつくと釣られて、食べられるぞ、とは考えてはいないだろう。

そこには何の思考もないと思う。

ただ、その釣り針を映像として見て、

体が勝手に釣り針を避けているだけだ。

さて、この釣り針の話は、

人間関係にも言える。

初対面の人が現れたとき、

危険かそうでないか、

好きか嫌いか、

などの判断を、考えてやっているのではなく、

釣り針を見たときの魚たちのように、

直感的に行っている。

それを好きとか、嫌いとかと言語化し判断しているのは、

その直感の後からだ。

それに本人は気がつかないように通常はできている。

そうなると、生物には、自己保存の本能があるから、

危険そうな人には、

本能的に、嫌い、と直感するハズだ。

また、別のケースとしては、

クライマーと言えど、自分のレベルを超える岸壁をみると、

それは明らかに危険なのだから、

登るのは止めよう、となるはずだ。

しかし、そうはならない。

火傷しそうな女に、男は入れ込んだりするし、

暴力を振るいそうな男に、女は惚れ込んだりする。

クライマーも、危険を承知で、ギリギリのところにチャレンジしてしまう。

なぜか?

そう、つまり、

人は安全だけが、

その直感を左右しているのではないからだ。

危険なもの、

タブー、

悪事、

そう言った方向に、時として、

舵を切ることがある。

(いやいや、そんなことはない、人は常に安全な方向にのみ、舵を切っているのだ、と言う人もいるかも知れないが)

ここで重要なのは、その判断をするとき、

何が影響しているのか?だ。

つまり、火傷しそうな女に入れあげてしまうのは、

その瞬間はとてもドキドキすることかも知れないが、

長期的に見たらそれは誤りだろう。

でも、その女に入れあげてしまうのはなぜなのか。

私が思うに、

自分の意思が介在しないもの、

端的に言えば、

肉体的にそれを求めているからだ。

危険なもの、悪事、タブーなどは、

それを行っているとき、

ドキドキするものだ。

そのドキドキが欲しいのだ。

人は善悪や安全の判断よりもまず、

ドキドキする好きなこと、気持ちいいことを求めているのだ。

(脳科学的に言えば、ドーパミンか何かが関係しているらしいが、それは他に任せる)

近頃、過酷なスポーツにチャレンジする人が増えたのも、

この辺が関係していると思う。

さて、ここで、持論展開。

人は、ない物ねだり をする生き物だ。

だから、日頃、ドキドキがない、

代わり映えしない毎日だ、と言う人ほど、

そう言うドキドキを欲してしまうのではないか。

そのドキドキが例えば、スポーツで大きなレースにチャレンジするとか、

火傷しそうな女に手をだして、やっぱり火傷した程度ならいいが、

それが、犯罪と言う形で行為化されるドキドキでは、

これは大いに問題。

昨今、性犯罪や愉快犯みたいなのが増えたのは、

その人が、毎日生きていることの中に、

ドキドキを見出せず、

その発散を、犯罪で済まそうとしてしまうからだと思う。

根拠は乏しいが、

私と言う意識が介在できない深い部分の意識、精神もしくは直感は、

おそらく、社会的な善悪を判断しないのではないか。

社会的な善悪の判断は、

自覚できる私という意識がするのであって、

その前提となる、意識を生みだす源泉には、善悪は関係ない。

なんでもゴチャマゼだと思う。

これは誰にも言える。

だからこそ、ドキドキ欲求が変な方向に向う前に、

ヘルシーな行為で発散するべきだ。

例えば、フルマラソンへのチャレンジだったり、

クライミングだったり、

スカイダイビングだったり、

最近の僕で言えば、

船を運転することだったり。

もしくは、可愛いと思った人にとりあえず声をかけるみたいなことだったり(これはヘルシーか?)。

これがもし一度でも、悪い方向の行為でドキドキを感じてしまうと、

それを繰り返し欲してしまい、止められず、最終的には犯罪になる。

でも、このドキドキをスポーツやビジネスなどで、

適度に感じることができれば、

きっといい方向に向う。

※あくまで適度にです。過剰になると問題を起こします

さて、今回なんで、こんなことを書いたかと言うと、

自分のドキドキをコントロールできない人が、とても多いと感じるから。

なかには、逆に、ドキドキを放棄して、

乾ききってしまった人も見かける(まあそう言う人は、ちょっと一押しすればいいのだけど)。

それでは、人生つまらない。

自分のドキドキをもっとコントロールすれば、

スッキリした毎日を過ごせます。

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2012年4月24日 (火)

現代社会の縮図をジュンク堂で体験する

書店と言う場所で働く人々を見ると、

感情をなるべく抑え、

機械的に動く、

そして、顧客の要求に最短で的確に答える、

そう言う雰囲気をかもし出しているように感じる。

また、蟻の巣のように張り巡らされた書棚たちには、

分野、流行物など、項目ごとに、本たちがピタリと並べられ、

その場にいると、

まるで、時が止まった空間、

いや、時と言うものが、

はじめからそこにない、

そんな風に感じることさえある。

そうだ、あれだ、

子どものころ、

働く蟻たちの動きをみて、

それが実に合理的で、無感情で、

システム的に行われ、

しかもそれが何万年と繰り返されている。

それがジュンク堂にもある。

かといって、それが居心地が悪いか、と言われれば、そうではなく、

実に心地よいと感じるときも多い。

だから、僕はジュンク堂のヘビーユーザーであることをはじめに断っておく。

さて、本題に入ろう。

先日、ジュンク堂池袋店に行ったときの話。

池袋ジュンクは、1F階にしかレジがなく、

そのため、タイミングによっては混雑する。

そこでロビーには、銀行のATMなどでよく見かける、

銀色のポールで、引っ張るときしめん状のロープが出てくるあれが、

レジを待つ客を、

これまた蟻のように並べるため、

右へ左へと、通路と作っている。

レジ業務は整然と行われ、

かなり効率よく会計が済まされ、

並んでいる人々も、

それほどストレスなく、順番を待っている。

私もその最後尾に並び、

衝動買いした本を抱え、

無感情に自分の番を待っていた。

何分待ったか、まったく記憶にない。

ふと気がつくと、自分の番が来た。

いや、正確には、

自分の番が来たと、自分で判断しただけだ。

なぜなら、僕が目の前で、空きがでたレジに並ぼうとすると、

15番のレジにお願いします

と、整理員に指示されたからだ。

それで、僕は一番端から2番目のレジに収まった。

いや、正確には収められた、と言う表現が正しい。

話しはココまで。

鋭い人なら僕が何を言いたいか分かるだろう。

ここからは、いつもの持論になるから、

ご注意願いたい。

まず、どこのレジ並ぶか?

そんなの、空いたとこに収まればいいと、僕は短絡的に思ってしまうが、

どうやら、ここでは違うらしく、

端のレジから、順番に、整然と、合理的に並ばせたいらしい。

事実、他の客もそのように誘導されていた。

次に、空きのできたレジの店員は、

空きができたことを、整理員に伝えるために、

番号の書いた赤い丸札を上げる。

それを見た、店員は、

その状況で、全体がスムーズに流れるように、

最適なレジを選び、

そこに客を、何番のレジへどうぞ、と誘導する。

なんと、合理的なシステムなのか。

私は、筋肉が緊張し、乳酸が溜まるのを感じた。

それも、気持ちの悪い疲労感だ。

この、ジュンク堂池袋店のシステムは、

全体を淀みなく進行させるために、

そこに、客の判断を介入させず、

統一ルールを学んだ店員が、その判断をし、

かつ、整理員とレジ担当員とが、

アイコンタクトなどの、

曖昧なコミュニケーションを避け、

絶対に間違いのない番号で呼びあう。


さて、いま、時代は閉塞感が漂っている。

それは、

合理的が正しい、

間違いは許されない、

説明を先にしろ、

そう言う暗黙のルールがはびこっているからだが、

この3点を遵守しようとすると、

ジュンク堂のレジのようなシステムが出来上がる。

社会全体にも、同じような状況は、気がつかないだけで、

多々あるだろう。

そこで、僕は思う。

このようなシステムは、

感情とか直感などの、

ある種、不確かで、

ややもすると、争いの原因になるものを、

事前にカットすることが前提であると。

それで世の中は、いや、言ってみれば、

人の人生に、何の喜びがあるのだろうか。

確かに、合理性は重要だし、間違いはなるべく起こさないほうがいい。

けれど、その行く先には、

間違いを起こすようなもの、

つまり、感情を押さえつけるような、

管理社会が待っているのではないだろうか。

話しはとぶが、

牛肉の内臓を生では食べてはいけない、と言う法律などは、

まさにその典型。

美味しいものを食べたいと言う人間の感情、

いや、もっと言えば本能が、

リスクのある食べ物を求めてしまうことに対し、

予め予防線をはっておき、

間違い(病人を出さない)を起こさせないようにする。

※なお、これは役人が責任を逃れるためだと思われる

そう言う管理の方法が、

今後、この国の民を、

無感情にさせ、

より弱体化させると僕は思う。

なぜなら、

感情は使わないと縮小し、

その発動さえ、

恐怖に感じてしまうからだ。

つまり、感情の表出とは、

喜びと同時に、

周囲との摩擦も生むからであり、

しかし、それを幼少期からの経験則や、

生まれ持ったシステムで、

摩擦を生まない感情の表現パターンを選んでいるのだが、

それを、感情を介さないルールで管理するような社会は、

いずれ、灰色に曇ったものになるだろう。


子どものころ、

蟻の巣に、水を流し込む悪戯をしたり、

蟻の列を蹴飛ばしたりして、

そのシステムを何度となく壊そうとした。

しかし、しばらくしてその場所をみると、

蟻たちは、何もなかったかの様に、

整然と日常を繰り返していた。

蟻は、怒っていたのだろうか。

悲しんでいたのだろうか。

我々は、何を想うのだろうか。

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2012年4月14日 (土)

解決策を考えない人々

この前、

打ち合わせ直前になって、

すみません、書類を忘れました・・・

と言う人がいて、

おいおい、それなきゃ、どうしようもないよって感じになり、

本人は、

どうしましょう・・・と、

ただ、立ちすくむだけで、

何の解決策も示さない。

そこで、

会社の人にPDFか何かでメールしてもらって、

キンコーズかどこかで出力すればいじゃん、

って僕が言うと、

いや、コピーではだめで、

直筆サインがないと駄目なんです・・・

と言う。

オイオイ待ってくれよ。

先方の会社に行って、

書類ありません、とは言えないし、

ドタキャンってわけにもいかんのだから、

とりあえずコピーでやり過ごすしかないでしょ。

と言うわけで、

キンコーズで出力し、

※しかもメールは僕のアドレスを使う始末。会社のメールは会社以外で開けないんだってさ。個人用のアドレスくらいもっててよ

先方に会い、

事情を説明したら、

あっ、別にいいですよ、中身確認できれば。

実物は後で送ってもらえればオッケーです。

って感じで、問題なし。

さて、最近、こう言う輩が実に多い。

誰でも忘れ物くらいするし、

失敗もしょうがない。

※僕なんか、瞬きの回数よりも、失敗の回数の方が多いくらいだ

でも、それを何とか解決しようと言う意思が、

まるで感じられないし、

今回のケースでは、

解決策を考えたのも、

先方に事情を説明したのも、僕。

本人は、いろいろ僕が説明した後に、

すみません、と言うだけ。

※さらに、キンコーズ代も僕が言うまで本人は財布も出さない始末・・・

さて、文句タラタラだけど、

何が言いたいかというと、

問題が起きた後に、どう対処するか。

これって、生きていく上で、もっとも必要なことの一つ。

でも、それが出来ないんじゃ、

どうやって生きていくつもりなのかしらって話。

んで、このことを、

某経営者に話したら、

最近そんなん奴ばっかだよ。

ようは、失敗をしない人生しか歩んでないってことでしょ。

と言う。

つまり、

こう言う解決策を考えない人々は、

人生の中で、

できることしかしない、

知らないこと、失敗しそうなこと、

そう言うことは、

基本やらない毎日を送る。

だから、失敗後の解決策を考えるなんて経験がない。

だから、思考停止に陥って、誰かが手を差し伸べてくれるのを待つ。

こう言うタイプの人が企業にも多いそうな。

しかし、もし、そんな人が増えたら、

この先、日本の企業、社会、家族などなど、

どうなってしまうのかしら?

と心配になってしまう。

まあ、他人の心配する前に、

自分の心配しないとだけどさ。


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2012年4月 8日 (日)

社会を包む閉塞感を喫茶店で体験する

久々のブログ更新になりました。

この間、ツーリングで九州行ったり、

東北の山で、トレーニングしたり、

まあ、好き勝手やっていたわけですが、

そんな自由な性格が災いして、

今話題の、

日本社会を包む、

「閉塞感」を身近に体験してしまいました。

なので、そのご報告。

3月某日。

埼玉のとある喫茶店で、いつものように、血眼になってPC作業をしていた。

聞きなれた音を立てて、お店の自動ドアが開き、

その瞬間、

「ひゃひゃ、ひひ、ヴ~ヴ~」

と言う、奇声が聞こえ、

店内が一瞬凍りついたのを感じた。

僕も肩の筋肉が緊張しそうになったが、

それを瞬間的に押さえ、

ちらっと、その方向を見ると、

小奇麗な洋服を着てはいるが、

半分はだけたような感じの、

40歳代くらいの女性が、

ズカズカと、足音を立て、

なんと、僕の隣(カウンター)に座ったではないか。

そして、注文もせずに、

グア~グア~とイビキを立てて寝始めた。

ああ、これが類は友を呼ぶ・・・

などと、やや悲観しながら、

あまり、見ないようにしていたんだけど、

どうも気になる。。。

そりゃ、誰でも気になる。。。

んで、席移ろうかなと思案してたら、

その女性が、

ムクリと立ち上がり、

「缶コーヒーくれ!」

と叫びだした。

えっ?

喫茶店で缶コーヒー?

って、そんな突っ込みをいれたくなったが、

なんかもう、

その人の表情とか、

だいぶ「やばい」感じだったので、

ワタクシ、

いつもの調子で、

「あなた、ちょっと、迷惑だよ」

みたいなことを言ったら、

キ~キ~って奇声を発して、

その人はでてったの。

ホッと一息ついて、

ふと店内を見渡すと、

僕に対して、

え~、その人に話しかけちゃう!?

みたいな感じの冷たい視線が。。。

その後すぐに、電車の時間が来たので、

店をそそくさとでたんだけど、

この経験談の論点は、

その女性の心の問題ではなく、

※この人は色々とあったのでしょうから、僕としては同情しますが

女性の奇行を見てみぬ振りする店員や、

その女性に文句を言った僕に対する、

ある種の怯えのような、視線についてです。

電車に乗りながら考えたのですが、

ああ、これが今の日本で話題になっている、

閉塞感

か、と気がつきました。

つまり、

変なもの、違うもの、知らないもの、に対して、

見てみぬ振りをし、

問題が常態化して、問題と感じなくなるか、

もしくは時間が解決するまでダンマリを決め込む。

また、誰かが何か意見を言おうものなら、

波風立てないで、みたいな、

事なかれ主義を発動し、

意見を言った者をこともあろうか、

変な人として、

悪い意味で、特別視するような雰囲気がある。

この閉塞感の縮図が、あの喫茶店にあった分けです、はい。

ちょっと、想像力豊かすぎねえか?って言われるかも知れないけど、

僕はそう直感しました。


問題が目の前にあっても、

行動を起こさない、

あまつさえ、

行動を起こす者を異端視するような社会は、

閉塞感タップリに決まっている。

そして、そう言う状況は、

政治とかが作っているんじゃなくて、

私たち一人ひとりが、

知らぬ間に、

日本人特有の空気感で、

作り出してしまっているのではないか。

穿った見方をするなら、

そう言う人に限って、

自分は問題を起こさない優等生

みたいな雰囲気をかもし出し、

誰かを隠れ蓑にして、

自分は安全な場所から様子を見て、

正しいか間違いかの判断ではなく、

大勢がそう言っているから、と言う、

空気感と言うか、パワーバランスみたいなものを判断材料にして、

他人の意見を無断で拝借し、

それが自分の意見だ、みたいな顔して、

毎日を過ごしている。

もっとも、それがいけないことか?

と問われれば、私には、

善悪の判断はつかないが、

少なくとも、生理的に嫌だ、と直感する。

なんか、卑怯な感じがするのよ。

なので、これからも僕は、

思ったことは言うし、

黙って嵐をやり過ごすと言うのは、

どうも性に合わない。

そして、勇気を持って行動した人を、

冷たい視線で攻撃するようなことはしない。

※むしろ、尊敬でしょう


さて、久しぶりのブログ更新かと思えば、

毎度の、持論展開かよ。。。と思われたかも知れませんが、

まあ、私はいつもこんな感じで、変わりません。

ではでは。


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2012年3月 5日 (月)

3.11の過ごし方

あれから1年がたとうとしている。

被災地では、追悼行事が色々と行われると聞く。

ある友人に、

「お前さんは、なにか行事とかやるのかね?」と質問されたが、

「僕は、家で家族とごろごろしているよ」、と答えた。

友人はふぅ~んと言う表情をして、それ以上は聞いてこなかった。

皆さんは、どう過ごしますか。

何もなかったように、いつもの日曜を、渋谷あたりで、買い物でもして過ごしますか?

僕は、いつものように過ごそうと思う。

朝起きて、ジョギングと筋トレして、

シーチキン茶漬けなどを食べながら、

ユニクロの広告や求人フリーペーパーなどを見て、

世の中デフレだな~などとぶつくさ言い、

DVDでも見ようかと思う。

ただし、いつものように過ごせる、と言うことが、

いかに奇跡的なことで、

そこに、愛する家族がいる、と言うことが、

いかに、尊いことかを理解したうえで。

そして、地震のあった時間帯には、

すこし、気持ちを落ち着けて、

これまでのこと、これからのことを考えたり、

もしくは無心になったりしようと思っています。

それ以外は、いたって普通に過ごすつもり。

イベントとか、行事とか、人ごみが嫌なので、

できれば、どこかの山荘でも行きたいなとかは考えているけど。

知人の中には、3.11に、イベントやるぜ!みたいな人もいるけど、

まあ、僕にはそう言う趣味はない。

さて、昨年から被災地での活動をやってきたけど、

この1年は、本当に色々な気付きと出会いがあった。

この気付きは、普通の暮らしでは、なかなか得られないものだと思うし

出会った人たちから、いろんなエネルギーをもらった。

でも、この気付きや出会いのエネルギーは、普通の生活を送るために、役立てたいと思う。

だってさ、

大切な家族がいて、健康で、ご飯が美味しくて、

トレーニングができることが、

いかに奇跡的で尊いかを、僕はこの1年で学んだんだから。

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2012年2月27日 (月)

なぜ、雪の日にパンプスを履くのか?日本人の性質

先日、大雪の日の話。

就活スーツに身を包んだ女性たちが、

20cmくらいの積雪の中、

パンプスで歩いていた。

明らかに、足はビショビショになっているだろう。

雪で濡れることは分かっているだろうに、

なぜ彼女たちは、そんな靴を雪の日に履くのか。

面接の為なのだろうか?

仮にそうだとしても、

訪問先に失礼がないような格好であれば、

別にパンプスでなくともいいだろう。

状況に合わせたスタイルがあるはずだ。

もしかすると、着る洋服で自分に対する印象が悪くなると思っているのか。

それとも、実際に訪問先企業では、雪が降ろうが、

就活スーツでないと、NG判断するのだろうか。

そうだとしたら、考えるだけでも恐ろしい。。。

中学生のときの校則みたいに、

中学生なんだからボーズだろう、

昔からこうなんだから、

みんなと同じ格好をしろ、みたいに、意味不明な。


さて、ここからがいつもの持論。

よく、日本人はまじめで融通が利かない、などと冷かされることがあるが、

雪の日に、パンプスを履いて会社訪問する彼女たちをみると、

ルールや慣習に従ったり、

周りと同化することが優先で、

状況に合わせて柔軟に行動することはないのかも、と思ってしまう。

特にここ最近の学生たちは、

将来に対する不安感がとても強く、

かなり保守的になっていると聞く。

だから、少しでもミスをしないように、と考え、

会社側から指示がないと、事前に示されたルールや、

これまでの慣習に、盲目的に従ってしまい、

雪の日でも、状況に合わせずパンプスを履く、と言う行動に出るのではないか。

考えすぎか。。。

豪雪地帯の就活スーツは、どんななんだろうか。

もしかすると、意外にパンプスは濡れないのか?

まあ、いずれにしても、

状況に合わせるよりも、ルールに従うタイプの人が、この国には多い気がする。

※他国に長期滞在した経験はないのであくまで主観です

でも、流動性が大きい時代に、ルール主義ではビジネスの世界では話にならないだろうし、

そもそも、面白い人生を送ることは難しい(あくまで僕の考える人生観ですが)。

そして何より、昨年の大地震時に、状況に合わせられないルール主義の人たちには、

ほとほと困らされた。

まあ、こんな感じです。

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2012年2月15日 (水)

未来のために、いつまでも白くあれ

子どものころから感じていたことだが、

たとえば、中学校のころ、不良グループに属すると、

それまで赤子のようだった男の子が、

いつの間にか髪を茶色に染め、タバコを吸い、悪さをする。

はたまた、それまで女の子だった人が、

年上の人と付き合い始めると、化粧をし急に大人っぽくなる。

みな、周りに影響されて生きているんだな~と当時の僕は思っていた(と思う)。

それが良い方向に働けばいいのだが、

なぜだろう、、、

人は悪い方向、もしくは楽な方向に流れる。

子どものころはそれでも良かった。

なぜなら、悪くなった理由やきっかけが、

純粋だからだ。

親に愛されないとか、彼女に振られたからとか、

あいつになめられないようにとか、

まあ、かわいいものだ。

しかし、大人になってから、周りに影響されて、

悪い方向に、いや、悪いとまでは言わなくても、

なんだか不気味な人(負のオーラが漂っている人)になった者たちは、

自分がそうなってしまったことを、

いっけんすると、正論にみえる文脈で自分を正当化しようとする。

例えば、

皆がそうしているから、

会社のため、

家族がいるから・・・、

組織の中で自分にはどうすることもできない・・・

いや、なかには、これが国のためなんだ、などと言う者もいる。

彼らは気がついていない。

それは自分を擁護するために、

他人をダシにしていると言うことを。

こんな人が多い。

自分が汚れてしまった理由を、

組織や他人、はたまた家族のためなどと言い、

自分は安全な場所で、雨風をやり過ごす。

こう言う人たちを見ると、

僕は悲しくなる。

文頭に、子どもが不良になる例を出したが、

そう言うとき教師たちは、こう言う。

みんなと同じことをしろ、

和を乱すな、

目立つな、

問題は起こすな、

お前はまだ学生なんだから教師の命令は絶対だ!

決まりは決まりだ!

などと、とうてい教師とは思えないことを言う。

高校生の頃、いつも疑問だったが、

大人になって理解した。

これは、資格制度の中で教師と言う免状をもらっただけの、

世間知らずの、学生の延長線上レベルの、

おおよそ、人に指導できるようなレベルの人間ではないからだと。

持論だが、教師は人が体で直感的に納得できるような説明ができなければ、

教師とは言えないのではないか。

先のような理由でしか生徒に説明できないのは、

ようは、その教師たちが送ってきた人生を、

中身なく正当化しようとし、

その愚かな生き方をまねさせようと、つまり愚かな仲間を作ろうと必死なのだ。

脱線したが、この国の教育現場はいま、大きな問題をはらんでいるのは事実だ。

それを制度や組織と言う人もいるが、

本質的にはそうではない。

そこにいる、一人ひとりの教師の質が低いのだ。

彼らは、制度や組織に甘んじ、努力を怠り(努力と我慢を履き違いえている者が多い)、

本当は、世間の誰よりも正義を貫かねばならない立場なのに、

黒く染まってしまったのだ。

思想、宗教、生き方は自由であろうし、

きれいごとを並べる前に、今を生きることも切実に大切なことだろう。

しかし、それだけでいいのだろうか。

君が所属する組織や人間関係、もしくはその人生の流れが、

仮に良くないものだったとしても、

君自身が『黒』になっていいと言うのは、

まったく通らないだろう。

生きると言うことは決してきれいごとではない。

それは分かる。

しかし、今の君は、本当の努力をしたのだろうか?

極端な話だが、

ユダヤ人を大量虐殺したのは、ヒトラーの命を受けた、

一人一人の兵隊に他ならない。

でも彼らは命令だから・・・と言う。

※もちろん中にはそうでない人も多数いたことだろう

上司、組織の命令だから、そう言う慣習だから、

悪いと分かっていてもそれに服従すると言うのはおかしい。

みんなが黒だから、自分も黒でいいと言うのは、

場合によっては、無意識上の悪である。

警察の裏金作り、天下り問題なども同様な構図だ。

法律でダメと定義されていないから、

それをやっていいなどと考えているのであれば、それこそ救い難い

では、君が黒の世界に住み、それでも黒にならない方法はなにか?

悪に染まらず、正義を貫くためにはどうしたらいいのか?

簡単なことだ。

5代、10代先の子孫を想って、今を生きることだ。

そして、君の顔と名前と家族が世の中に晒されたとき、

胸を張って、立っていられるかと想像すればいい。

人は、そのへんに転がっている動物のように、

昨日も明日もなく、今だけを生きているわけではない。

10年100年1000年先を想像し生きることができる。

原発問題も、政治の問題も、

今あなたの目の前にいる子どもに対する接し方にしても、

あなた自身の日頃の振る舞いにしても、

未来を見据えて考え、行動すれば、

それは、黒に染まらず、純粋な白となろう。

悪に染まらず、正義を貫けるだろう。

もし君が、正義の道を踏み外しそうになったならば、

体を鍛えればいい。

肉体鍛錬は、心の浄化、魂を磨くことでもあるからだ。

そして、悪を振り払い、

澄んだ、新しい気持ちで毎日を送ればいい。

私が毎日鍛錬をしているのは、筋肉が欲しいからではない。

悪に染まらないように、

日々、魂を浄化しているのだ。

目先のことも大切なのは分かる。

しかし、人はいつか死ぬもの。

ならば、未来にバトンタッチできるような生き方をすべきだろう。

子孫に永く語り継がれる人物であろうじゃないか。

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